電羊倉庫

嘘をつく練習と雑文・感想など。ウェブサイト(https://electricsheepsf.web.fc2.com/index.htm)※「創作」タグの記事は全てフィクションです。

フィリップ・K・ディック『人間以前』[ファンタジーと子供たち。そして最良と最悪の発露]

「地図にない町」(The Commuter)翻訳:大森望

 現実崩壊。とてもシンプルな作品で、ほかの同系列の作品と違って緊迫感には欠けるけど、あちらが主観的な恐怖ならこちらは徐々に現実を侵食されていくことへの客観的な恐怖を味わうことができる。過去改変による現実への波及を一般人の視点から描いた作品とも読める。どこか山野浩一「消えた街」「メシメリ街道」を思い出すけど、時系列でいえば逆になるのか。ちなみに、さっき機械翻訳にかけて知ったけど原題は「通勤者」という意味らしい。

 

「妖精の王」(The King of the Elves)翻訳:浅倉久志

 こちらもオーソドックスな作品。ただ、このタイプの作品の主人公が老齢というのは珍しいんじゃないかな。ディックの作品メモによると最初はバッドエンドにするつもりだったらしいけど、たぶんフィニアスは本当に……ということだったんだろうなあ。どちらかというとそっちのほうがディックっぽかった気はする。あと、どうでもいいけどelfの複数形ってelvesってことをこの小説の原題から知った。fはいったいどこへ……。

 
「この卑しい地上に」(Upon the Dull Earth)翻訳:浅倉久志

 偽物と現実崩壊。ディックの隠れた名作。ふとした拍子に世界が崩れてしまう恐怖を不条理小説的に描いていて、SF的な処理はほとんど存在しないけど(ディックにしては、という但し書きがつくけど)ものすごく理性的に作られた完成度高い小説という印象。発端と結末の理屈をあまり具体的に説明していないのが良い方向に作用しているのかも。P104から始まる崩壊、逃避、そして訪れる終焉は絶品。一つの不正行為がすべてをバグらせてしまい取り返しがつかなくなってしまう絶望感は普遍性があると思うからぜひとも若い読者に勧めてみたい。できればこういう作品を単発のドラマで観てみたかったなあ。

 

「欠陥ビーバー」(Cadbury,the Beaver Who Lacked)翻訳:浅倉久志

 現実崩壊(?)。わからないけどなんかすき。ファンタジーの皮を被った普通小説の皮を被った不条理小説……かもしれない。寓話的な物語からシームレスに世界観が崩れていく絶妙な構成がたまらない。文体も落ち着いていて読みやすく会話文も抑制が効いていて品性がある。抑鬱的な男、ヒステリックな妻、物知り顔な精神分析医、そして家庭の外側の女たち、とオールスターでディックの自己分析っぽいところは筒井康隆脱走と追跡のサンバ』を思い出す。

 

「不法侵入者」(The Cosmic Poachers)翻訳:大森望

 単純明快。解説にもある通り、ちょっとSFに触れたことがある人だったら(もしかしたらそうでもない人でさえ)すぐにオチを察することができる。ディックの薄暗い文体を貫通する気楽さは唯一無二かもしれない。ラストのどこかすっとぼけた感じが星新一味を感じさせて(ある意味では)面白い。もちろん特に出来が悪いわけでもないので読んでもそんなに損はしない。

 

「宇宙の死者」(What the Dead Men Say)翻訳:浅倉久志

 上位存在(?)。中編寄りの短編作品。病的な女性(少女?)と抑鬱的な男性というディックによくある組み合わせ。設定の面白さはもちろんのこと、クルクルと動き回る展開はそれなりに楽しく読める。面白かったけど、その終わり方はちょっと中途半端じゃないかなあ。まあオチはちゃんとついているからあれで十分といえば十分なんだけど……。ただ、主人公はとてもじゃないけど好感の持てるキャラクターではなくて、そこに引っかかる人もいると思う。あとディックの描く女性にしてはかなりまともそうだったセーラ=ベルが物語からフェイドアウトしてるのはちょっともったいない。

 

「父さんもどき」(The Father-Thing)翻訳:大森望

 偽物。多くの子供たちが一度は体験する大人の二面性への恐怖心をホラーSFに昇華した作品。「宇宙の死者」と同じくスッと終わるけど、こちらはどこか子供たちの成長を感じられて清々しくさえある。SF的なギミックもチープではあるけどそれほどあからさまではない。実直で娯楽性の高い良作。

 

「新世代」(Progeny)翻訳:浅倉久志

 Twitterで似たようなことを主張している人がいたなあ。エドもジャネットも、どちらも広く存在するのだろう。徹頭徹尾無関心というか冷淡というか、本人はごく真剣に提案しているのにまったく取り合ってもらえない様子は物悲しいけど、まあエドの提案も子供からしたらねえ……。思わせぶりなラストシーンは非人間的な存在に対するディックのスタンスがよく表れている。

 

「ナニー」(Nanny)翻訳:浅倉久志

 ディックにしては珍しく直截な暴力が描写されている。保育者としてのロボットは割と定番の題材だけどディックが描くとこんなにも仄暗くなる。最初は飼い犬がモチーフなんじゃないかなと思ったけど流石にそういうわけではなさそう。商業主義への嫌悪感はあからさまだけど、無駄なもの≒生活に不要なものを買わされるのがダメというなら作家なんてその最たるものなわけで、なんだかなあと思わなくもない。もちろん、欲しいから買うのと購入を半ば強制されるのとでは意味が違うのはわかるけど……。

 

「フォスター、おまえはもう死んでいるぞ」(Foster,You're Dead)翻訳:若島正

 前作に続き商業主義的への嫌悪感が満ち溢れた作品。こういう同調圧力は日本の専売特許みたいな言われ方をしたりするけど、こういう作品を読んでいるとそういうわけでもなさそう。親の主張は間違っているわけではないけど、そのしわ寄せが子供に向かってしまうというのがとても哀しく感じるようになったのは加齢のせいかもしれない。フォスターの言動はあまりにも切実で、それだけに一時的な喜びと安堵の行動はもう少し引いた目から見れば喜劇的ですらあり、ラストの辛さを際立たせる。

 

「人間以前」(The Pre-Persons)翻訳:若島正

 ディックの全短編の中で最も賛否分かれるであろう作品。解説および本人による作品ノートにもある通り反中絶作品とも読める……というかそう読むのが正統でジョアンナ・ラスの怒りはごもっともと言わざるを得ない。けれど人間の定義に対するSF的な(≒性格の悪い/皮肉な)アイディアは魅力的で極めてディックらしいのも否定しようがない。詳しくは後段で書くけどディックの悪い所と良い所の両面が顕著に表れた作品でもある。ちなみに邦題は「まだ人間じゃない」のほうが好き。

 

「シビュラの目」(The Eye of the Sibyl)翻訳:浅倉久志

 一度読んでいたはずなのに、まったく内容を覚えてなかった数少ない作品の一つ。『ヴァリス』に連なる作品なのは間違いないけど、内容はなんというか……うーん……もちろん、そのわけのわからなさを楽しむことはできるけど、それは正統な読み方ではないよなあ。そもそもおれは『ヴァリス』を高く評価しないタイプのファンなわけで本作のメインターゲット層ではないから仕方ないのかもしれない。ただ、全体の雰囲気自体は嫌いじゃない。

 

 

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 解説の通りファンタジー系と子供関連の作品が多い短編集。ファンタジーはオーソドックスな作品からディックの特徴が出ている作品までそろっている。ディックの不条理小説的な側面が綺麗にまとまった「この卑しい地上に」から神学幻視的な方面に発露した「シビュラの目」と幅広い。子供に関する作品のうち「ナニー」と「フォスター、おまえはもう死んでいるぞ」はどちらも消費社会への嫌悪感が根底にあるけど、実は子供のおもちゃを買うのに心底うんざりした経験がベースになっていたりして……と思ったけど両作の発表年が1955年で第一子の誕生が1960年だから全く関係ない下衆の勘繰りでした。ちなみに両作品とも軍拡を暗喩した作品とも読める。

 ベストは「人間以前」……なんだけど、この作品を語るうえでどうしても避けられないので以下、嫌な話が入る。

 この作品に中絶反対のプロパガンダ小説としての一面があるのは否定しようがなくてジョアンナ・ラスの怒りは当然のこと、というのは作品個別の箇所で書いたけどそれ以上にこの小説には拙いところがある。善悪の属性付けにあからさまな偏りがあることだ。読んでもらえればわかるけど、作中で生後処理を推し進めようとするのは母親ばかりで反対するのは父親ばかりだ。ディックは明らかに自分と同じ属性(父親)を善、対立する存在として母親を悪として描いている。生後処理への態度ばかりではなくそもそもの人物描写にも顕著に表れていて、父親たちは思慮深く冷静なのに対して母親たちは冷淡で攻撃的だ*1。よく挙げられるディックの欠点の一つに「まともな女性を描けない」というのがあるけど、本作はその最たる例でもある。

 じゃあなんでそんなのをベストに挙げるのか、というと当然それを相応の良さがあるからだ。といっても単純な話で「人間以前」のメインアイディアがSF的なIFの発想で素晴らしいということ。本作は人間の定義をディックらしい視点で描いている。胎児がどの段階からヒトであるかは時代と地域によってさまざまだろうけど出生した赤子と胎児で扱いが違うのはある程度共通すると思う。出生によって人間になる*2ということはゼロ歳になった瞬間に人間になるということだ。デジタルで明確な区分だけど、ゼロ歳で人間になることに具体的な理由はない。そこで年齢ではなく知性……具体的には高等数学を理解できれば知性を持った人間と認める。人間ではない存在は殺害しても殺人とはならない。ヒトの定義を具体的数値で決定することを極端に推し進めるとこういう風にもなる。具体的な定義は素晴らしいものであるはずなのに推し進めていく不合理な事態が起きてしまう。星新一白い服の男」に通じるSF的な発想の豊さがある。

 そういう意味で「人間以前」はディックの美点と欠点が煮詰まった作品だ。そして人間性をテストによって判別するという点では『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の関連作ともいえる。

 

 以下、本作への感想とはちょっとズレる話。

 小説に限らず映画や漫画でも、たいていの作品には良いところと悪いところがあって、両面を勘案して評価を下すわけだけど、各種レビューサイトやブログ等を見ていると悪いところをピックアップしすぎているような気がする。もっと部分評価すべきなんじゃないかなと思う。「ダメなところもあるけどこういう良いところもあるよなあ」という風に。これはディック特有のことではない。あえて反対側の立場の人を挙げるけどコニー・ウィリス「わが愛しき娘たちよ」はかなりわかりやすく男を悪玉、女を善玉にしていて不公平の度合いで言えば本作とあまり変わらない*3けど、サスペンス的な部分があまりにも素晴らしいからこそ名作に数えられているのだと思う。ほかの名作諸作品だって大なり小なりそういうところがある。そういう欠陥に焦点を当てすぎるとたいていの作品は見るに堪えないものになるだろう。

 もちろん、ある一点がどうしても受け付けないから駄作と断言するのも間違いではない。一滴の汚水が混入したワインはもうワインではないというのも正しい。けれど、もう少し個別評価をしてみたって良いんじゃないかな、と辛辣な言葉が並ぶレビューサイト等を見ていると考えてしまう。

 

 

※作品の発表時期や邦題などは「site KIPPLE」を、一部感想などは「Silverboy Club」参考にした。

収録作一覧

「地図にない町」
「妖精の王」
「この卑しい地上に」
「欠陥ビーバー」
「不法侵入者」
「宇宙の死者」
「父さんもどき」
「新世代」
「ナニー」
「フォスター、おまえはもう死んでいるぞ」
「人間以前」
「シビュラの目」

 

 

*1:一応断っておくと男と女ではない。あくまで父親と母親。

*2:ちょっと関係ないけど日本の民法では相続の兼合いで出生した瞬間に遡って「胎児のときにも権利能力を有していた」ことになるらしい。

*3:……はちょっと言い過ぎだけど不公平ではある。

最近見た存在しない映画(2022年11月)

ネオ・デビルマン(2018年、日本、監督:湯間博激、136分)

 同じくネットフリックスオリジナルの「DEVILMAN crybaby」と同時配信されていた作品をなぜいまごろかというと「DEVILMAN crybaby」でダメージを受けすぎて手を出せなかったからで、だいぶ遅くなってしまったけど、ひとまず視聴できた。原作がアンソロジーなこともあって、本作も総勢10名の監督によるアンソロジー的な構成になっている。各作品のつながりはないけど、飛鳥了/不動明/牧村美樹だけはキャスト(アニメならCV)が共通しているのは、やっぱりパラレルワールドを強調する意図があるのかな。

 個人的に印象的だったのはやっぱり岩明均先生と安彦良和先生のパート。前者は実写、後者はアニメでシリアス/ギャグと正反対だけどコンパクトに纏まっていて完成度は高い。ほかにも実写なら高寺彰彦先生のパートは重苦しい雰囲気もさることながら屋上の決戦は圧巻の一言で、アニメなら三山のぼる先生のパートが作画のレベルの高さもさることながら下級デーモンのデザインがあまりにも素晴らしい。全体を通して、できれば安彦パートは本人に監督してほしかった、ということだけが唯一の不満かな。

 かなり悪い意味で有名な実写版と「DEVILMAN crybaby」はどちらも永井豪先生の『デビルマン』を原作にした映像作品だけど、本作はその二作ともテレビアニメ版とも違った持ち味がある。もちろん、作家の独自性が色濃く出ているから好みは分かれるかもしれないけど、各種媒体の『デビルマン』になにかしら触れたことがある人なら騙されたと思って観てみほしい。絶対に損はしない。

《印象的なシーン》「やめんか、ヨシオ」

 

 

永遠の森―博物館惑星―(2001年、日本、監督:菅江健、104分)

 いやあ、いつか観たいと思っていたからDVD/BDで復刻してくれた本当に嬉しいですわ。個人的には映像化するならアニメかなと思っていたけど、実写でも十分鑑賞するに値する良作に仕上がっている。もちろんSF的なギミックはちょっと厳しものがあって原作よりかなり縮小しているけど、それでも2001年の映画にしてはかなり頑張っているし、役者もいくらか日本人に置き換えたキャラクターがいるけど、多様な人種を可能な限り再現している。もちろん、各所で批判されているようにネネはどうにかして原作通りにやってほしかったなあ。ただ、マシューを日本人にしたのは、まあいいんじゃないかな、なんとなくだけど。

 エピソードについては比較的小道具を準備しやすい「天井の調べ聞きうる者」と「この子はだあれ」を中心にしつつタイトルにもなっている「永遠の森」そして、当然クライマックスの「ラヴ・ソング」につなげている。もちろん、削ったエピソードに含まれた各種前振りはキッチリ拾っている。SF的なギミックをかなり絞ってきただけにメインの二エピソードではかなり映像に凝っている。素晴らしい。

 原作には二冊分の続編があるけど、映画化はちょっと難しいんだろうなあ。いまに至るまで続編は作られていないし、制作のうわさも聞かない。ぜひやってほしいけどなあ。

《印象的なシーン》永遠の森の輪舞曲。

 

 

頼むからゼニを使ってくれ!(2014年、日本、監督:作道四郎、60分)

 貝殻や布など(物品貨幣)から銭を使った買い物(鋳造貨幣)に移行するようあの手この手を使って民衆を導く映画。やっていることは大まじめな経済政策なのにお上が必死に嘆願して下々の者どもが居丈高にふるまっているのが可笑しくて仕方ない。時代劇の体裁をとっているけどほとんどファンタジー。基本的な時代設定は日本の飛鳥時代のようだけど、主人公のお殿様はどう考えても江戸時代の将軍がモチーフだったり、なぜか日本語ペラペラの黒人が出てきたりとハチャメチャ。特に通りすがりのスーツの男(どう考えても現代人の学者)が突然ケインズ論を滔々と語り颯爽と去っていくシーンは爆笑した。ただ、コント味が強すぎて受け入れられない人もいるかもしれない。

 後半が駆け足が過ぎて尻切れトンボに終わってしまっているのは至極残念。調べたらいろいろ事情があったみたいだけど、せっかく良い題材を見つけたんだから、もうちょっと長い尺で作り直してくれてもいいと思うんだけどなあ。

《印象的なシーン》殿様が泣きながら「秤量貨幣カレンシー・バイ・ウェイト!」と連呼するシーン。

 

 

猫語の教科書(1970年、アメリカ、監督:ツィツァ*1、70分)

 史上初、猫が脚本監督を務めた異色中の異色作。お猫様に撮っていただいた映画ということで全世界の猫の下僕の皆さんがこぞって映画館に押し掛けたことでたいそう興行収入も良かったらしい。

 肝心の内容の方は……まあ、そこそこ。人間のスタッフは監督の指示を忠実に守っているらしく会話の途中でただただ空を撮ってたり、数分だけなぞの場面が挿入されてたり、役者が突然なぞの言葉を発したりするところもある。けれど、全体として作品として破綻しているというわけではなく、一応ちゃんとはしている。

 個人的には冒頭のナレーションが特に印象的。グッと引き込まれるし、これから起きることについても多少のことは許せる気持ちになれる。

《印象的なシーン》猫が獣医には従順であるよう説くシーン。

 

 

魔法と科学(2024年、日本、監督:真崎有智夫、10分)

 薄暗い雰囲気ではあるけど、昭和の中期ぐらいの雰囲気をよく再現しているし話の筋もシンプルでオチもそれなりのものがついている。「彼ら」がどういう存在だったかについての匂わせも、どちらともとれるように作られている。少なくとも観ても損はしない作品。

《印象的なシーン》仮面のような老婆の笑み。

*1:ヒトの助監督としてレイ・サースがクレジットされていているがポール・ギャリコの変名であるという噂がある。

最近見た映画(2022年11月)

キャメラを止めるな!(2022年、フランス、監督:ミシェル・アザナビシウス、112分)

 フランスの人もいろいろ大変なんだろうなあ。

 ああ、いつもの「全く無関係の作品をあたかも関連作品かのように錯誤させてとりあえず興行収入を稼ぐタイプのあくどい邦題」か……と思ったら『カメラを止めるな!』のリメイクとは、恐れ入りました(?)。

 基本的な展開は原作とほぼ同じ。ちょくちょく違うところがあるけど大筋に影響があるものではなくて、だったら無くても良かったんじゃないかと思わなくもないけど、まあその辺はお国柄とかいろいろあるだろうからなあ。個人的には日本人プロデューサーとの「原作に忠実にやるか/やらないか」のやりとりが好き。どちらかというと邦画でそういうことよく聞くけど、やっぱり海外でもそういう論争があるんだろうなあ。そういえば(アメリカの話だけど)『ミッション:インポッシブル』もそれなりに揉めて大変だったって言ってたっけ。

 本邦での評判はイマイチよくないけど、個人的には十分面白かったし決して損をするような映画ではないと思う。ただ、お偉方たちにもうちょっとカタルシスというか「まあ、そこそこ出来てたし良かったじゃん」的な明るい空気がほしかった。あと原作にもあった「エンドロールでのメイキング」も観てみたかった。

《印象的なシーン》資本主義とアイデンティティを語りながらゾンビから逃げるシーン。

 

 

トレマーズ(1990年、アメリカ、監督:ロン・アンダーウッド、96分)

 やっぱりこういうバディものは大好き。怪物の造形はおぞましく、できることとできないことが明確にされていて逃走も闘争にも工夫があり、物語の筋も単純明快で結末も爽やか、とB級パニック映画の良い所が凝縮された作品。おれはこういうタイプの映画に詳しいわけじゃないけど、B級映画やカルト映画を敬遠するような人でもちゃんと楽しめる娯楽作品だと思う。

 土の中を移動する怪物という設定は一つの発明だよなあ。本作を「陸の『ジョーンズ』だ」と評している人がいたけど言いえて妙だと思う。恐怖感を煽れるし移動の描写を省けるしで一石二鳥、しかも怪物の長所でもあり短所ともなる。よくできているよなあ、本当に。

 ちなみにえらくたくさん続編ができているようだけど、さすがにそこまで追いかけなくてもいいかなあ。まあ、元の設定が秀逸だから多少ぶれて作っても面白くなるのだろうけど。

《印象的なシーン》「頑張れよ、石頭」「任せとけって、青二才」

 

 

ドロステのはてで僕ら(2020年、日本、監督:山口淳太、70分)

 めっちゃ良かった。ちょっとスロースタート気味だけど短く纏まっているし、ストーリーに絡む各要素がキチンと前振りされていて唐突感はほとんどない。起承転結すべてにおいてお手本のような時間SF作品。ただ、全体的に緩い空気で物語が進み設定の確認が多くてクドイところはあるから苦手な人はいるかもしれないけど、登場人物に不快感がないから慣れてしまえばきっと楽しめるはず。時間の短さも相まって観ても後悔しない良作SF映画に仕上がっている。

 エンドロールでメイキングが流れるけど、タイムスケジュールをウォッチで測って管理してた。すげえ、ちゃんと二分を守ってたのか。ワンカットっぽいけど、ところどころわかりにくいように画面を切っているのは上手い。事態の発端をふんわり誤魔化しているのは『サマータイムマシン・ブルース』っぽいところもある。

 偉そうな言い方になるけど、邦画は超大作よりもこういうコンパクトにまとまったアイディア重視の作品が欲しいなあ、と思う。

《印象的なシーン》事態の落着後の二人の会話。

 

 

ルール(1998年代、アメリカ、監督:ジェイミー・ブランクス、99分)

 煽り運転は、やめようね。

 都市伝説を再現する殺人鬼が現れる、という発想は純粋に面白い上に殺し方の工夫にもつながっているのは素晴らしい。ただ、当然と言えば当然だけど日本ではあまり馴染みのない都市伝説もいくつかあっていまいちピンとこないところもあった。逆に言うと日本にも伝わっているようなのもいくつかある。「電気をつけなくて良かったな」という伝言が残されるやつは類似の都市伝説が日本にもあるはず。

 全体的に知能指数が低い。こういうタイプの映画はメインキャラが大学生なことが多いけど、ビックリするほど馬鹿っぽくて本当に大学生なのか疑わしくなる。まあ、感情移入しすぎないためにそう作っているんだろうけど。犯人候補が複数いて終盤まで確定できないのは緊迫感にもつながっていて良い。ただ真犯人は頑丈すぎて笑う。サイボーグかな?

 あと、邦題は「都市伝説」を絡めたほうが良かったんじゃないかな。邦題からもうちょっと真面目なタイプの映画と思ってたから面食らったところもあるんだよなあ。

《印象的なシーン》冒頭のガソリンスタンドのシーン。

 

 

DAICON FILM版 帰ってきたウルトラマン(1983年、日本、監督:庵野秀明、26分)

 島本和彦アオイホノオ』と安野モヨコ『監督不行き届き』で存在は知っていたけど観たことがなかったので視聴。すごいな、これ。特撮には詳しくないけど学生が作った自主製作映画にしては破格の出来だと思う。感想サイトで言われている通り、そりゃあプロの作品と比較するとチープ(戦闘機が明らかに紙製など)だけど、建物の破壊や怪獣の造形、ウルトラマンの動きへの拘りなどもっと評価されてしかるべきだと思う。というか監督の名前で期待値をあげすぎた人が低評価のレビューを書いてるんじゃないかなと思う。

《印象的なシーン》ハヤカワ隊員がウルトラマンに変身するシーン。

 

 

16.03(2016年、ポーランド(?)、監督:ナタリア・シウィカ、16分)

 古典的な筋だけど前振りも一応ちゃんとしているし、大きな破綻もなくちゃんとしている。短いしサクッと見れて良いと思う。ただアマゾンレビューで苦言を呈されていたけどカメラマンの存在が消し切れていないから、ミスなのか前振りなのかが分かりにくくなっているのは確かにちょっとなあ……。

《印象的なシーン》最初のトラックの衝突。

16.03

16.03

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『トゥルーマン・ショー』[トゥルーマンと恋人と毒親とおれたち]

※ネタバレを含みます。

 

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「おう、お前が一番好きな映画を教えてくれや。もちろん人生に教訓を与えてくれる考えさせられるような重厚な映画なんだろうなあ?ああん?」と胸倉掴まれ拳銃突きつけられても、「やっぱり『バック・トゥー・ザ・フューチャー』が最高の映画だよ!人類が作り出した至高の映画だあ!」とお目目キラキラさせて答えるくらいには単純明快な娯楽映画が好きで、オールタイムベストに『宇宙人ポール』『バック・トゥー・ザ・フューチャー』『サマータイムマシン・ブルース』『カメラを止めるな!』の辺りが入る人間といえば自己紹介としてわかりやすいと思う。ただ、そういう深みのある映画がどうしても受け付けないというわけではなくて、最近見た作品なら『プラットフォーム』なんかがそういうタイプだったけど、割と好きな作品だったりする。それに物語の隙間を見つけて自分なりの考察なり推察なり妄想なりをねじ込んで解釈するのだって嫌いじゃない。

 というわけで、おれが人生で二番目に好きな映画『トゥルーマン・ショー』の考察……というか身勝手な深読みをふんだんにトッピングした妄想のようなものを書いてみたいと思う。

 以下『トゥルーマン・ショー』を全編観たことがあるという前提の文章になる。「むかし観たけど記憶があいまいで……」という方は詳しいあらすじを乗せている他のブログを読んでもらうか、ぶっちゃけウィキペディアを読んでもらえるとだいたい思い出せると思う。

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 この映画は「実は世界はまがい物で何者かがコントロールしていて、自分は監視(観察)されているのではないか?」というディック的な不安*1を描いている。トゥルーマンは本人が知らぬ間に自分の人生を操作され、それをテレビ放送で全世界の晒されていたけれど、ふとしたきっかけからそのことに気づき、外の世界へと脱出しようとする。過去のトラウマを乗り越えて壁際にたどり着き、いつもの挨拶の言葉を口にして脱出を決行するラストシーンは感動的なわけだけど、この映画で最も重要な場面は最後の最後、モブのおじさん二人の会話だ。

「終わっちゃったよ」

「チャンネル変えろよ」

「番組表は?」

 この場面を最後に物語は幕を閉じる。

 このおじさんは「映画」を観ているおれたちそのものだ。おれたちはこの観客たちと同じようにトゥルーマンの行動にハラハラ、ドキドキさせられつつ彼の行動を見守り、そして最後の選択に拍手喝采する。よくやったトゥルーマン、そうだ、そうするべきなんだ。いやあ、最高の映画だった。

 そしておれたちは彼と同じセリフを吐く。「次の番組は?」

 身勝手に感動し、身勝手に批判し、ことが終わればすぐに忘れてしまう。トゥルーマンのことを本気で心配しているわけではない。当たり前だ。だってフィクションなんだから。どんなに感情移入したってあくまで画面の向こう側の出来事でしかない。そしてトゥルーマンの周囲にいるのは仕事として接している役者だけだ。

 けど、それが悪いわけじゃない。それがフィクションというものだし、むしろ感情移入しすぎて大変なことになってしまうことだってある。悪いわけじゃないけど、どこか残酷な場面でもある。

 そして、そうでない人物が二人だけいる。クリストフとシルビアだ。

 クリストフは番組の総責任者でトゥルーマンの脱出阻止を指揮している張本人だ。彼は模造世界に閉じ込めておくことがトゥルーマンのためになっていると(自覚的かはともかく)本気で思っている。そうでないなら死ぬかもしれない目に合わせてまで脱出を阻止しようとはしない。実際、終盤クリストフはスポンサーの存在をほとんど無視して、脱出阻止を強行する。どう考えても事態は破綻しているのに。クリストフはそういう意味でトゥルーマンを愛していた。視聴者たちや生みの親、育ての親たちよりもずっと。シーヘブンこそがトゥルーマンにふさわしい世界だと本気で考えいたからこその行動であり、だからこそほかのスタッフが後始末に乗り出すなか一人だけ唖然としていた。

 そしてシルビア。彼女は元は役者だったけど本気でトゥルーマンを好きになり、シーヘブンを追い出されてからもトゥルーマン解放運動(?)に取り組んでいた。彼女だけがトゥルーマンを……テレビスターではなく生身の人間としての彼を……愛していた。妻であるメリルでも親友であるマーロンでもない。彼女がトゥルーマンの決意を見届けると、すぐに家を飛び出しのはそういうことだ。彼女だけが唯一、生身の人間としてのトゥルーマンに関心があったからこそ、彼が決意した瞬間に家を飛びだした。テレビスターとしてではなく生身のトゥルーマンに会うために。

 トゥルーマンを一個人として愛していたのはこの二人だけだ。毒親クリストフ恋人シルビア。それ以外の人々は仕事として接しているかもしくはショーとして楽しんでいたにすぎない。モブのおじさんたちの気の抜けた会話にはそういう残忍さがある。

 けれど、だからこそ二人が際立つ。作中劇トゥルーマン・ショーを鑑賞する作中人物モブというおれたちの似姿を通して作中人物トゥルーマンを本当に愛している対照的な二人を浮き上がらせる。世界中の人々が「トゥルーマン・ショー」の主役としか認知しないトゥルーマンにとってシルビアが本当の救いになることが、彼女の行動とそのほか大勢の人との対比によって示される。作中作という特性を生かした完璧な対比構造だ。

 

 たぶん製作陣の意図とは異なる解釈だろうけど、そういう理由でおれはこの映画が大好きだ。

 

 

*1:ディック『時は乱れて』を参考に脚本を作ったらしい

フィリップ・K・ディック『小さな黒い箱』[変色した社会問題と神について]

「小さな黒い箱」(The Little Black Box)翻訳:浅倉久志

 解説にある通り『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の原型となった短編*1で、ディック諸短編の中でも特に重要な作品。ディックが人間性について「感情移入能力」を重視したのは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『流れよわが涙、と警官は言った』小説以外では「人間とアンドロイドと機械」などでも明らかだけど、共感ボックスという名が示す通りこの短編には「ただただ苦痛を共有する」だけの道具が登場する。マーサー教について、作中では禅と関係するとか言われているけど、解説にある通りキリスト教がモチーフだろう。共感ボックスは解説にある通り教会がモチーフっぽいけど、マーサー教の在り方はどちらかというと原始的な宗教っぽい。あくまで倫理の延長線というか……。できることなら変な神学にのめりこまないでこっちの方面を追究してほしかったなあ。

 

「輪廻の車」(The Turning Wheel)翻訳:浅倉久志

 ディックは人種問題を題材にする際に実際の属性とは逆に描くことが多い。後段の「ジェイムズ・P・クロウ」もそういうことだし本作もそうだ。科学と宗教の対立で、しかも科学の側に立っているのは珍しい気がしたけど、『宇宙の眼』も科学側ではあるし、そうでもないか。まあ、どちらも宗教に否定的、とまではいえないけど……。どうでもいいけど「輪廻の豚」(「ウーヴ身重く横たわる」)と混同して記憶していた。エルロンの元ネタがL・ロン・ハーバードっていうのはなるほど。一応エルロンは飛行機の補助翼を意味するらしいけど、関係ないだろうなあ。

 

「ラウタヴァーラ事件」(Rautavaara's Case)翻訳:大森望

 上位存在。晩年の良さが十二分に発揮され、悪さが程よく消えている。かなり良い意味でSFらしい作品で、ディック生涯のテーマの一つである神の存在を描いている。水槽の脳の亜種というべき設定も根本的に倫理観の違う異星人の設定も秀逸。二種類の相互理解不能な存在が抑揚の効いた筆致で描写されている。欠点という欠点が見つからない秀作。もっと高く評価されてほしい。

 

「待機員」(Stand-By)翻訳:大森望

 ドタバタコメディ。なんともいえないダメなやつらが謀略というかそれ未満というか……いろいろ動いて最後はちょっと小粋な台詞にまあまあなオチがつく。作中人物たちは大まじめで必死だけど、けど、まあ、大したことは起きない(いや宇宙人が侵略してきてるけど切迫感はない)しある意味では平和というか、なんというか。メインの二人はどっちも政治家には不向きな気がする。

 

「ラグランド・パークをどうする?」(What'll We Do with Ragland Park?)翻訳:大森望

 上記短編の続編。前作よりはやや雰囲気が暗い(物語の筋にほとんどなにの影響も及ぼさない人死にが起きる)けど、相変わらずドタバタと動き回る。あまり深いことは考えずラグランド・パークの特異な能力を楽しむのがいいのだろう。

 

「聖なる争い」(Holy Quarrel)翻訳:浅倉久志

 高性能なコンピューターのトラブルが事態の発端、という意味では前二作と関連した作品。食わせる情報によって予報がどう変わるかをチェックして赤色警報が出された原因を探る、というメインのプロセスは子供のころにやった対照実験を思い出して楽しい。ただ、徹底的な分析で異常がないは確認済みとあるわけだから、オチはちょっと強引のような気はする。

 

「運のないゲーム」(A Game of Unchance)翻訳:浅倉久志

 ゼラズニイ『地獄のハイウェイ』はSFの皮を被った西部劇なわけだけど、この作品も同じくSFの皮を被った時代物的な雰囲気がある。魅力的な(けれど役に立たない)商品と引き換えに生活の糧を奪っていくという手法は西部開拓時代が元ネタなんじゃないかな。理性ではわかっていても手を出してしまうという意味ではティプトリー「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」を思い出す。

 

「傍観者」(The Chromium Fence)翻訳:浅倉久志

 とても好きな作品。ここでも書いた通り清潔党と自然党の対立として戯画的に描かれているけど、敵対する二つの存在のどちらかに与することを強要されることの嫌悪感はとても普遍的なことだと思う。ただ、それはそれとして分析医の言葉(P332-333)にもそれなりに説得力はあり、それだけに呆気ないラストが印象深い。

 

「ジェイムズ・P・クロウ」(James P. Crow)翻訳:浅倉久志

 ロボットと人間に仮託して現実の人種問題を描いている。展開も結論もかなりオーソドックスで(やや悪意がある表現になるけど)当たり障りがない。ただ、それだけちゃんとしているともいえる。大きく得はしないけど決して損はしない短編。

 

「水蜘蛛計画」(Waterspider)翻訳:浅倉久志

 とても楽しい作品。「ぶざまなオルフェウス」を思い出させるけど、実在の他人を主人公格にしているせいか、こちらのほうが生き生きと描かれている。ただ、高速宇宙船内の描写(P419-421)が本筋に活かされていないのはちょっとどうなんだろう。こういう作品が実写化されてもいいんじゃないかな、というのはファンの贔屓が過ぎるだけかな。

 

「時間飛行士へのささやかな贈物」(A Little Something for Us Tempunauts)翻訳:浅倉久志

 設定は破綻している。何度読んでも時間が循環している理屈が分からない。物語の筋を制御できていない。ディックの悪い所がでている。けれど切実な感情の描写が胸を打ち、全体を覆う倦怠感に心の芯が麻痺させられる。ラスト一段の皮肉を交えた文章は美しくタイトルを絡めた落着として機能している。皮肉や嫌味ではなく、本当に小難しいことは考えずにただ純粋に描写を味わうべき作品かもしれない。

 

 

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 主に政治と宗教に関する小説を中心にした短編集ということだけど、政治は「輪廻の車」宗教は「ラウタヴァーラ事件」が代表選手ということになるかな。

 ディックの政治に対するスタンスは正直良く分からない。いや、当人が権力嫌いだったのは『ゴールデンマン』のまえがき(The Lucky Dog Pet Store)等から明らかだけど、その割にディックの描くキャラクターは妙に上昇志向が強くて権力に食い込もうとする傾向が強い。ただ、差別問題に関してはほぼ一貫していて主張も危うげがない。

 宗教というとやっぱり『ヴァリス』の神学談義を思い出すけど、そういう小難しい理屈よりも、もっとコンパクトにまとめた作品のほうがディックの宗教観を表しているような気がする。そういう意味で「ラウタヴァーラ事件」と「小さな黒い箱」はとても重要な作品のはず。

 ベストは「小さな黒い箱」かな。おれのオールタイムベストが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』であることを加味してもキッチリまとまっていて素晴らしい作品だ。完全に余談だけど「小さな黒い箱」をブログの名前にしようかなと思っていたこともある。それくらい好きな作品。結局、肩ひじ張って見えるかな、と思ってやめてしまったけど、あっちでやっても良かったような気はしている。

 最後にもう一つ。ディックの宗教観について書こうとして「ただ隣人にやさしくしろ、と説いただけで迫害された人」*2というキリスト評を引用しようと思ったんだけど、どうしても記載元が見つからない。たしかに読んだ記憶があるんだけど……別の人が書いたのをディックのものと勘違いしていたか、それとも小説作中の人物のセリフだったか、もしくはマジで存在しないものなのか。どなたか「これじゃないか」というのがあれば教えていただけると助かります。

 

 

※作品の発表時期や邦題などは「site KIPPLE」を、一部感想などは「Silverboy Club」参考にした。

収録作一覧

「小さな黒い箱」
「輪廻の車」
「ラウタヴァーラ事件」
「待機員」
「ラグランド・パークをどうする?」
「聖なる争い」
「運のないゲーム」
「傍観者」
「ジェイムズ・P・クロウ」
「水蜘蛛計画」
「時間飛行士へのささやかな贈物」

 

 

 

*1:ほかにも「かけがえのない人造物」も原型の一つ

*2:正確には違うかもしれないけどだいたいそんな感じの文章

荘奕傑『古代中国の日常生活』[小説仕立てで追体験する日々の営み]

 ジャンルとしては学術書だけど記述は物語形式で、どちらかというと「古代中国の市民生活を題材にした短編小説集」に近い。文体もシンプルで読みやすく肩ひじ張らずに楽しめるし学術的な小難しい話もそんなに多くない。ちょっとでも古代中国に興味がある人(例えば原泰久『キングダム』やKOEI『三国無双』などで興味を持った人)にもお勧めしたい一冊。もちろん、物語だからといって近年の研究の専門的な見識をないがしろにしているわけではなくて、古代の墓の中から出てきた副葬品などからわかった民衆の生活が生き生きと(そしてどこか薄暗く)描かれている。ただ、通常の小説のように特異な事件が起きたり、話のオチがついたりしていないパートもあるから、物語を期待しすぎると肩透かしを食らうかもしれない。

 安定した時代とはいえ古代国家の民衆の生活だからそれなりにきつい描写もあるけど、古代国家特有の耐え難い残酷さはない。個人的に運河労働者と製塩職人が泥濘に足を取られながら仕事をしている様子は似たような作業をしたことがあったこともあってより辛さをリアルに感じた。泥沼は想像以上の行動を制限して作業は遅々として進まず、しかも泥の上に薄く張られた水は日光を照り返して顔を焼く。あれほど「「二度とやりたくなくない。絶対にもう二度とごめんだわ!」と思ったことはない。現代ですらそうなんだから古代ではさぞかし辛かったろう。

 個人的には産婆と料理長のパートが知らなかったことも多くて勉強になった。胎盤についてのあれこれは現代でもたまに耳にするけど古代でもそういうことがあったのか……鯉、橙の皮、シダの葉、シソの葉、魚卵をつかってタレを作っていたらしいけどそんなに具体的な材料まで伝わっているのかあ……などなど。

 好きなエピソードは墓荒らしと青銅器職人と彫刻師。墓荒らしはどこか宝を求めてダンジョンに潜る冒険者を思い出す。青銅器職人と彫刻師は当時のモノづくり創意工夫が追体験できる。どの時代どの場所でも職人の技巧には心を惹かれる。

 そういえば本書の描写(物語)は「紀元23年」(P9)という設定ということらしいけど、これは厳密に守られているわけではないと思う。王女付きの女官(P272-)は魯王の娘に仕えているという設定だけど、王莽は郡国制を廃止して封建もしていない。手元に史料も王莽の研究本もないから確認できないけど、そうだったはず。だとすると魯王は前漢景帝の息子劉余かその子孫と考えるのが自然になる。そのほかにも「紀元23年」ではちょっと整合がつかない描写があったような気がするけど、まあ、その辺は重箱の隅をつついているだけで、本への評価とはあまり関係がない。

 ちなみに類書として古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで (中公新書)がある。本書が物語仕立てなのに対して、こちらはテレビのドキュメンタリー番組に近い。現代から古代中国にタイムトラベルした男が漢帝国の領内を散策する、という体裁で人々の生活を描写しつつ適宜解説が加えられる。本書より高い視点から語られていて、ファッション/市場での買い物/トイレ事情/性愛の事情など下世話な話題にも触れられているのもあり暗さは薄くコミカルな場面も多い。セットで読むとより古代中国を楽しめる。ほかにもある地方官吏の生涯――木簡が語る中国古代人の日常生活 (京大人文研東方学叢書)が類書になるけどこちらは未読。まだ手に入れてもいないけど余裕ができたら手を出してみたい。

 

 

最近見た存在しない映画(2022年10月)

スペースキャットvsアースキャット(2222年、アメリカ、監督:ジェフリー・ライバー、222分)

 物語の筋自体は単純明快で、地球を侵略に来た外来種宇宙猫スペースキャットと彼らを撃退すべく急ごしらえのチームを組んだ在来種の地球猫アースキャットが可愛らしくも真剣に争う、という『キャッツ & ドッグス』を思い出させる二項対立のアクションコメディ作品。ところどころに往年の名作映画のパロディがあるらしいけど、おれは『キル・ビル』と『フラップ・フリップ・フロー』くらいしかわからなかったけど、有識者によると優に15作品の名シーンへの敬意が仕込まれているらしい。

 地球猫アースキャットは5匹。幼猫と成猫を切り替えられるパフ=マフィン、ヒトではない存在を魅了できるピネロピ、ユーモアのセンスがある治癒者ベンジャミン、九つの命をもつ美貌のレディ・キャット、そして皮肉屋で頭脳明晰なヘリックス。宇宙猫スペースキャットも同じく5匹いるけど、能力と性格は本編の重大なネタバレになるのでここには書かない。けれど、地球猫アースキャットに負けないほど個性的なことだけは保証しても良い。

 物語の筋は単純だけど描写には工夫がある。魅力的な10匹の猫たちがそれぞれの長所を活かして策謀を張り巡らせ、ときには物理的に戦うのだけど、両陣営どちらかを極端に持ち上げる/下げることなく対等の存在として描いているのは流石。ただ、この年代に作られたにしては特殊効果がややお粗末なのは残念。実は続編があるらしいけど、どこを検索してもでてこない。見つけた人がいたらぜひご一報を。

《印象的なシーン》「わたしもおまえのところへ行く。エジプト人の歩みで」

 

 

戦いの華(2020年、日本、監督:宇森周、120分)

 どう見ても三国志だけど三国志では無いという不思議な映画。どちらかというと架空戦記に近いかな。登場人物の名前は元ネタの姓とあざなを一文字をくっつけたものになっていて、各キャラクターの関係性も史実(というか『三国志演義』)に近い。劉玄と関雲と張徳は義兄弟だし曹徳は人材マニアで孫謀はどこか保守的な面があり呂奉は異様に強いけど裏切る。余談だけど関係性は主に赤壁の戦いのころくらいをモチーフにしているらしく孫謀と関雲が致命的に仲たがいしているわけではない。

 前半は『三国志演義』の赤壁の戦いをモチーフに三つ巴の戦いが描かれる。特に曹徳が関雲を口車に乗せて味方につけるシーンは鳥肌が立つほど素晴らしい。ただ、いわゆる三国志らしいシーンはそのあたりまでで、瑞獣が現れてから以降は時空の裂け目からなだれ込んできた異世界のモンスターと一致団結して戦う、というかなり飛躍したストーリーになっている。

 もちろん、三国志の知識があったほうが楽しめるけど、知識がないと理解できないとかそういうタイプの映画ではない。三国志ファンからは賛否両論らしくて、怒るのも大人気ないとは思うけど好意的に取れないのも、まあ仕方ないよなあ。軽く感想を漁ってみたけど「たしかに変わった作品だけど『反三国志』よりは原作に忠実だろ」という意見には笑った。

 演出は凝っているしハイテンポな展開は見ていて飽きない。難しいことは考えないで純粋に楽しく観るのが良いだろう。少なくとも中盤からは三国志のことはいったん忘れるべき。

《印象的なシーン》軍楽隊を犠牲にして諸葛孔を救出する孫謀。

 

 

スーパーウルトラメガバトルドッチボールマッチ(2016年、日本、監督:可児玄道、91分)

 タイトルから察せられる通りの内容の作品。あたまがわるい。超能力バトルドッチボールデスゲーム作品というべきで、地位も名誉も持った一人前の大人が国の存亡をかけてドッチボールをするなんて、ふつうは白けてしまいそうだけど、役者が演技巧者揃いであまりに熱が入った芝居をするものだから途中でやめられずに最後まで観てしまった。ただ、物語は珍妙奇天烈な展開に加えて、無理が過ぎてほとんど不条理劇のような収束を迎えるものだから、感想サイトであらすじを確認しながらもう一周しないと話の筋を把握できない。

 特殊効果はかなり安っぽく、音楽回りもないほうがマシという惨憺たるありさま。ただ、ギャディスの旋回カメラワークがかなり有効に使われていたのはもっと褒められてしかるべきだと思う。

 まあ、たまにはこういう作品も悪くないかもしれない。

《印象的なシーン》手から離れた瞬間に弾けて六つに分裂し相手選手に牙をむくボール。

 

 

ウオッチ・メイカー(2014年、スイス、監督:ジョルジュ・ハウザー、124分)

 ファンタジー的な世界観だけど魔法や幻想生物の類はほとんどでてこない。そういう意味ではややジャケット詐欺気味だけど、そういう作風を期待せずに観れば決して悪い作品ではない。少なくとも一部の人たちが酷評するほどの作品ではない。何も持たない状態で惑星に放り出されて時計を作ることを競わされるという設定だけど、個人的には星新一「宿命」を思い出す。

 それぞれの開始地点に見合った方法を手探りで模索していく序盤は心躍らされるけど、それ以降は起伏に乏しくかなり単調。ただ全編を通して映像的な美しさは素晴らしい。特に中盤のクライマックスで登場するクオーツ*1の輝きは必見の出来栄え。

 ちなみに「太陽の光」「水が落ちる速度」「火が燃える速度」「砂や水銀が落ちる速度」「開花の時点」と時間を計る方法が描写されるけど、どれも機械式の時計が発明される以前の原始的な時計の形態で、現実世界でも再現可能みたいだ。ただ、脱進機構の説明はあまり正確ではないらしい。その辺の事情は字幕翻訳の専門用語監修についていた人がまとめたサイトがあるから、ぜひご一読を。

《印象的なシーン》「舵手が砂を食べたらしいな。さあ、上がってこい」

 

 

宝石の値打ち(2021年、日本、監督:真崎有智夫、9分)

 それなりに楽しい作品だけど、ちょっと無理筋なところがある。まあ、ショート作品ならこんなものかなあ。あと、正直おれにもこういうところがあるから気を付けようと思った。わりと本気で。

《印象的なシーン》「……薬指のサイズ、測らせてもらえない?」

*1:正確にはクオーツではないけど、現実世界で言うところのクオーツ