電羊倉庫

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岩明均の描く女性と「自分ではない者を良く描く」ということ

 ……と大上段なタイトルにしたけどそんなにたいしたことではなくて、岩明均先生*1の漫画に出てくる女性のキャラクターって「他人の異変や心情の変化を敏感に察知する能力」が高いことがあって、それって一種のバランス感覚なのかも、というだけの話。「だから?」というレベルの記事で、そこからなにか高尚な話ができるわけではなく特に深読みもしていない。けど、これって創作の基本なのかもしれない。

 

 

 岩明均の初連載作品『風子のいる店』は少女を主人公にしているけど、他の連載作の多くは青年くらいの男性を主人公にしている*2。だから、という理由もあるのかもしれないけど岩明均の描く女性は察しが良い人物が多い。

 

 まずは『寄生獣』を見てみよう。

 ヒロインの村野は心臓を貫かれるという大きな変化以前の「右手にミギーが寄生した」というささやかな変化にすら違和感を覚えて右手を凝視している。村野の気づきはとても重要な要素の一つで、序盤、中盤、終盤と要所で「君は泉新一君なの?」と新一に問いかけている。これは大きな変化に対して「そんなものだろう」としか思わなかった同級生の男子生徒たちのリアクションと対照的で、ちょっと気取った言い方をするなら「あなたは本当に人間側なの?」と問いかけているようですらある。そしてこの問いかけは最終話で大きな意味を持つ。

 新一の母親である信子はかなり早い段階から新一の変化を察知し気をかけている。伊豆旅行に行く寸前には「何かがちがう」「自分の子供じゃ…」と(ややヒステリックな反応だったことを鑑みても)かなり的を射たことを言っている。父親である一之のリアクションと好対照だ。そして、そんな繊細な感性を持っているからこそ、伊豆からの帰宅が効果的になり、帰宅が効果的だからこそ……というのは長くなるから別の記事で。

 主人公回り以外では田宮良子の母親もごく短時間で娘に化けた寄生生物の正体を見抜いている*3

 

 次作の『七夕の国』にはあまりそのような傾向はない。『ヘウレーカ』『雪の峠・剣の舞』も同じだ。

 

 というわけで次は最新作『ヒストリエ』だ。最も印象的なのは青年期を過ごすボアの村のサテュラだ。エウメネスがボアの村を出ていくきっかけになった謀略の最後の仕上げ……行動の内容とその意味……を無言の視線だけで察知している。でなければあの場面で「だめだよ」というセリフは出てこない。

 時間がやや前後するけど幼少期の恋人ペリアラも察しの良い女性の一人だ。彼女はエウメネスが船に乗る寸前に友人らと見送りに来るわけだけど、カロン伝手にエウメネスお手製のペンダントを付けて来ている。これは暗に「まだエウメネスに好意を抱いている」と示していて、二度と会えなくなるかもしれない旅立ちの前になにか一言特別な言葉が欲しかった。けれどエウメネスはそれがわかっていたからこそ、未練が残ったりしないよう特別なことは言わず船に乗ってしまう。その意図をペリアラは正確に受け取っている。

 もちろん、これは推察でしかないけどそう解釈すると以下のことに説明がつく。見送りにわざわざペンダントを付けてきて、そして単にショックを受けただけなら投げ捨てればよかったものを、思いとどまりそのまま走り去っったこと。そしてエウメネスのなにかを飲み込むような苦悶の表情。周囲の男友達の楽天的な反応とは一線を画している。

 マケドニアに仕官してから出てくる女性キャラクターは主にエウリュディケとオリュンピアスの二人だけど、オリュンピアスはそういうレベルの問題じゃないからとりあえず置いておくとして、問題はエウリュディケだ。彼女にはいまのところそんな描写はないけれど今後もっと事態が切迫してくればそういう場面がでてくるんじゃないかなと思っている。エウメネスの女性を見る目とある意味での女運のなさを強調する意味も込めて……。

 

 

 ここまでが確かに存在する描写で、ここから先はたんなる憶測。

 

 

 長々と書いてきたけど、これは岩明均が「女性に特別な能力を感じとっている」とか「男を鈍感と思っている」とかそういうことではないと思う。彼女らが察しが良いのは「母親だから*4」とか「恋人だから」とか「〇〇人」だからとかそういうことではない。

 これはバランス感覚だ。

 小説でも漫画でもアニメでもドラマでも映画でもゲームでも何でもいいけど、何か物語的なものを作った人ならわかってもらえると思うけど、正義とか良識とか明敏とか、そのほか諸々の美点をどういうキャラクターに付与するかはけっこう難しかったりする。

 自分と同じ属性を持ちすぎたキャラクターに特殊な能力や美点を付与しすぎると、まるで自分自身が物語の中で大活躍しているようで居心地が悪くなる。もっと直截に言うと自作品なのにメアリー・スーを登場させているようで気持ちが悪い。貫き通せばそれも娯楽になるかもしれないけどなかなか難しい。だから岩明均は自分とは違う属性である「女性」にそういう「心情の機微を察する能力」を付与しているのだと思う。特に『ヒストリエ』のような歴史ものはどうしても「男性」の物語になりがちなのだから。

 

 もちろん岩明均がそう明言したわけではない。完全に憶測の域を出ない。ただ、こういう傾向は他の作家にもある。少年の純真さや強さを強調する作家、若い女性をやや万能気味に持ち上げる作家、青年期の男の活力や知的な能力を過大評価する作家、老人に人生経験の豊かさや強靭な精神力を付与する作家もいる。自分の観測範囲では中年の男を賛美する人は見たことがないけど、ただ知らないだけでそういう作家だっているはずだ。

 きちんと調べたわけじゃないけど、その多くは年齢や性別などが作者と一致しないように作っているだろう。もちろん、他人に物語を作って見せようなんて思う段階である程度の年齢になっていることが多いから、よって少年少女は自動的に自分と違う属性になるわけだけど……。

 こういう工夫は物語を俯瞰で見つづけるのにとても役立ってくれる。そういう意味で「自分ではない者を良く描く」ことは創作の王道の一つだと思う。

 

 

 ……じゃあ逆に多くの作家たちが悪意とか非常識とか馬鹿とかそういう諸々の欠点をどういう属性のキャラクターに付与しているかというと……まあ、なんというか……なんともいえないけれど。

 

 

 

 

*1:以下敬称略

*2:2021年現在で女性の主人公は読み切り作品以外では原作を担当した『レイリ』と短期連載作「剣の舞」くらい。

*3:ここは映画版で強調されており、同行していた父親はまったくわかっていなかった。

*4:一応断っておくけど『寄生獣』での田宮良子の変化や胸の穴のくだりにおける母性(人間性)の欠落と獲得の対比は別の問題だ。