電羊倉庫

嘘をつく練習と雑文・感想など。ウェブサイト(https://electricsheepsf.web.fc2.com/index.htm)※「創作」タグの記事は全てフィクションです。

好きの言語化と嫌いの理由

 ちょっとした思い出と最近の出来事。

 

 人間歳をとると偏屈になるというけど、幼少期のほうが嫌いなものが多かった。それこそ中学校を卒業するくらいまでは物語に対して本当に偏屈で、とにかく星新一的などんでん返しオチがついてない物語は物語と認めてなかった*1。教科書に載っているタイプの物語は論外で、唯一の例外が中島敦だったけど、それも中国史が好きだからというだけのことで、文体が素晴らしいとかテーマ性が好きとかそういうわけではなかった。

 文章の善し悪しを一切判断できなかったあのころの自分は世界で最も美しい文章であるレイ・ブラッドベリ「万華鏡」は一ミリも理解できなかっただろうし、なんだったら筒井康隆脱走と追跡のサンバ』やジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』などの傑作も無造作に放り投げていたと思う。

 それが高校くらいから徐々に軟化した。純文学と呼ばれるジャンルにもちょっとだけ手を出したり、江戸川乱歩経由で夢野久作に出会ったりして、だいぶ星新一的ではない物語も受け入れられるようになった。決定打は心に余裕ができた大学時代にSFを経由して「奇妙な味」という存在を知ったことで、「あっ、世の中には強烈なオチが無くても面白い物語があるんだ」と理解できて、ようやく妙な自縄自縛から完全に解き放たれた。いろいろなものをちゃんと楽しめるようになり、前よりずっと純粋に多種多様な物語を楽しめている。

 

 最近は自分の好みも分かってきた。

 短編ならアッと驚くオチがあるのなら残酷な結末でも構わないけど、長篇ならとにかくハッピーエンドが好きだ。もし読者を惑わせ混乱させるようなタイプのストーリーなら、「わかりそうでわからないけどなんとなく納得できる」ものが好き。

 文体でいえば、地の文が三人称形式ならあまり砕けていないものが好きだけど、一人称形式なら現実の話口に近くて饒舌なものが好き。そのほか細かいところで言えば、ひらがなにあまり開かない*2ほうが好きで、他にもSF作品なら漢字で構成された造語に原文の言葉をルビで振って*3いるものが好き……と他にもいろいろあるけどざっとこんなところだ。

 

 もちろん、いまも嫌いなモノはある……ということに先日気づかされた。名前は出さないけどある作家の小説が本当に心の底からムカついて、読み進めるのが苦痛で、投げ捨てたくなるほどだった。けれどこの小説は低劣な作品なわけではなくて、商業出版されるくらいの水準に達していてちゃんと面白いはずなのに、どうしても受けつかなかった。読み進めるのがこんなに苦痛だったのは久しぶりなほどだったけど駄目な作品ではなかった。ただ嫌いな作品だったのだ。

 なんでこんなに「嫌い」なんだろう、と思いながらお気に入りの作家の小説に逃げていて理由がわかった。文体だ。あの語り口は小学生のころに読み聞かせに来てくれていた方々のもったいぶった、丁寧な、そしてどこか子供たちを見下した*4もののようで、どうしても耐えられなかったんだ。もちろん、その小説はそういうコンセプトの作品なわけだけど、そうとわかっていてもどうしても受け入れられなかった。

 ちなみに駄目なモノにも触れる機会があった。某ドラマ番組の中盤くらいだったと思うけど、さっきまで自力では脱出不可能な場所に閉じ込められていたはずの刑事が、真犯人が暴かれるシーンで何の説明もなく当然のようにその場にいて犯人を逮捕していたことがあった。その後のフォローも一切なくその話は終わった。細かいトリックの整合性とかそういうことではなく、もっと初歩的な不手際*5で、これは放送しては駄目なレベルなのではと驚いたことを覚えている。ちなみにそのドラマはいまでも好きだけど、やっぱり駄目な作品の代表格として記憶している。

 こんな風に駄目な作品が嫌いとは限らず、嫌いな作品が駄目なモノとは限らない。

 

 ほかにもいろいろあるけど、そういう映画/小説/ドラマ/アニメ/漫画/演劇/音楽なんかに費やした時間が完全に無駄だったかというとそうではないと思う。

 嫌いなモノには理由がある。もちろん駄目なモノにも、反対に好きなモノにも。なぜそれを好きだと思うのか/駄目だと思うのか/嫌いだと思うのかを考え、文章にまとめることはとても意味のあることだと思う。自分のものはもちろん、他人の「好き/嫌い」の理由は参考になることが多い。

 作家志望者は「嫌なモノや駄目なモノなんて不純物は見ない方がいい」という話をよく聞くけど、そうではないと思う。単なる受け手なら、そりゃあ、好きなモノとか出来がいいモノばかり見ていた方が精神衛生上よろしいだろうけど、作家志望はそういうわけにはいかない。嫌いなモノや出来の悪いモノにもあえて触れて、その理由を言語化することは、好きなモノや素晴らしいモノを言語化することと同じくらい大切だ。だからもっとたくさんの「嫌い/ムカつく/駄目」に触れて、それを言語化していかなければならない。教師と同じくらい反面教師も大切なのだから。

 

 

 というわけで今日も星新一と某作家を交互に読み進めている。

 

 

*1:いま読み返してみると星新一の作品にもそれほど強烈なオチがついていない作品もある(「白昼の襲撃」「冬の蝶」「泉」など)けど、たぶん都合よく忘れていたか無視していたんだと思う

*2:常用外漢字でも熟語ならそのまま使ってほしい。「躊躇」とか「被曝」とか

*3:ウィリアム・ギブスンニューロマンサー』での「没入ジャック・イン」のように

*4:当時来てくれていたボランティアの方々には本当に申し訳ないけど、教養深くてとても優しい物語をゆったりとした口調で読み聞かせられるのは、馬鹿にされ見下されているようで本当に嫌だった。もっとちゃんと面白いものを真剣に読んでほしいと願っていたことをいまでも思い出す。

*5:それこそ外部の誰かが閉じ込められているの気づいて助け出す、みたいな短いシーンを挿入すればそれでよかったはずだ