電羊倉庫

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思い出:フリーにはたらく

今週のお題

 

 フリーにはたらく、と聞くと思い出すことがある。

 

 まだ小学生くらいのころだ。分厚くて小さなテレビでは「もはや戦後ではない」なんて言われていたっけ。いまはもう廃業してしまったけれど、ぼくの実家はミニトマト農家を営んでいた。休みの日に家族全員で昼食をとると、隣に座っている父から汗の臭いと蔓の香りの入り混じった匂いがしていたことを昨日のことのように思い出せる。あのころはどこのお父さんからもそんな匂いがするものだと思っていた。

 実家はあまり裕福ではなく人を雇う余裕なんかなくて、ほぼ家族だけで業務を回していた。高齢だった祖父母も働いていたくらいだから当然ぼくらは貴重な労働力だったわけで、幼少期によく手伝いに駆り出されていた。

 

 主な仕事は摘果作業だった。ミニトマトを栽培しているビニールハウスは畝と畝の間に1.5人が通れるくらいの通路が真っすぐ流れていている。そこを手押し車にコンテナを二段ほど積んで押しながらキャスター付きの小さな椅子に座って両脇に実っているミニトマトをもぎりながら進んでいく。気を付けることは色味が青いものを間違ってもぎらないことと、ヘタを取らないように気を付ける程度のことで、単純作業でさほど負荷のある労働ではなかった。ただ、蒸し暑さには閉口させられたし、なにより遊び盛りの身には貴重な休日を仕事でつぶされるのがたまらなかった。

 だからよく逃げ出した。ビニールハウスは縦に100メートルほどあり、蔦や蔓が生い茂っていることもあり反対側はほぼ見えない。入り口から反対側には畑(おそらく他所の土地)が広がっていて、片道が終わるとそこから抜け出して用水路の溝に隠れたり近所の友達の家に逃げ込んだりした。

 大抵は一時間もすると祖父がぼくらを見つけ出して「内緒だよ」と言いながらお菓子をくれて機嫌を取り、優しくビニールハウスに連れ戻してくれた。ぶつぶつ言いながらも兄もぼくもミニトマトを収穫し、たまには隠れたり逃げたりした。その辺はたぶん両親も織り込み済みだったのだろう。それほど強く咎められることはなかった。

 

 自営業という意味では自由なフリー職場でぼくらは無責任フリーでほとんどタダフリー*1ではたらいていた。両親がぼくらのサボりに目くじらを立てなかったのはぼくらが子供だったということ以上にキチンと賃金を払っていなかったからだと思う。両親は責任と賃金の関係性をぼくの両親はよく理解していた。働くこと……というよりお金をいただくための責任を幼いぼくらはよくわかっていなかった。自営業のシビアさを知っていた両親はそういう価値観の元で(意識的にかは分からないけど)接していた。

 

 もう実家はもう取り壊され、ビニールハウスがあった土地はコンビニになっているらしい。兄は遠く離れた別の田舎町に移り住み、いろいろあったみたいだけれどそれなりに幸せに暮らすことができている。ぼくは都会に出て、現代でいうところのブラック企業だった小さな食品工場に勤めることになった。そこで歯を食いしばって生き抜き、いまはドロップアウトして、こうやってブログを書き、たまに近所の同好の士と盆栽や鯉を見に行ったりしている。

 

 だからあのころの事を思い出すのだ。

 

 安易に昔はよかったなんて口が裂けても言わない。ただ、あのころに戻ってみたいと思うことがある。あの幼かったころに、実家の手伝いを通して責任と収入についてもう少しだけキチンと考え、何かを掴んでいれば……もっと違う人生を歩んでこれたのかもしれない。もっと違う選択ができたかもしれない。もっと違う後悔をしていたかもしれない。もっと違う人と出会ったかもしれない。もっと違う……。

 イラストレーターを夢見ていた、という過去が頭をちらつくのは、ぼくが老い先短い身の上だからなのだろう。

 

 

*1:正確にはお小遣いをもらっていた気もするけど、だとしてもかなり少額だったことは間違いない