電羊倉庫

嘘をつく練習と雑文・感想など。ウェブサイト(https://electricsheepsf.web.fc2.com/index.htm)※「創作」タグの記事は全てフィクションです。

思い出:手帳

今週のお題「手帳」

 

 手帳、と聞くと思い出すことがある。

 

 幼いころから忘れっぽいわたしにとって手帳はなくてはならない、相棒のような存在だ。日々の暮らしのあれやこれはカレンダーを四角に折って作った簡易メモ帳に書き記し、やり遂げたものから線で消していく。敷き詰められた「やるべきこと」が一つずつ消えていくのが快感で、そのおかげでやりたくない日々の雑務もそれなりに進められる。もちろんスケジュールやそのほかのことは大きなA4サイズのカレンダー付のものに書きこんでいる。

 毎年暮れになると近所の大きな書店に手帳を買い替えに行く。その日は久しぶりに幼い息子を連れてきていた。「何か一冊買ってあげるから選んでおいで」もちろん、活字の本を持ってくるとは思っていなかったけど、持ってきた漫画には女性の水着姿が大きく描かれていて*1、そういう文化に不慣れなわたしは思わずぎょっとしてしまった。

 そんなわたしの心情なんてつゆ知らずの息子はとてもキラキラした目で嬉しそうに買い物かごの中に入れてニコニコわたしを見上げている。いまならわかる。息子はちょっと思春期が来るのが遅い子だったから、そういうことがわからないで読んでいたのでしょう。内容が重要で表紙は問題でなかった。

 けれど、あのころのわたしはそういう機微がよくわかっていなくて、つい「そんなもの返してきなさい!」とかなり強めに怒鳴ってしまった*2

 ハッとしたときにはもう遅かった。息子は目に涙をいっぱいに浮かべて数秒押し黙り、大きく息を吸い込んで……小さな声で言った。「きらいだ」わたしをにらみつけ、漫画を床にたたきつけそのまま走り出した。

 ……息子があんな怒り方をするなんて初めてで、唖然としているうちにもう店から出て行ってしまった。周囲のざわめきで我に返り書店を飛び出した。もう周囲には見当たらず携帯電話も電源が切られている。途方に暮れかけたわたしはあることを思い出しました。手帳には息子がよくいく場所をメモしていたはず。

 そこには「ゲームセンター」「デパートの食品売り場」「パン屋」「猫が出没する路地裏」と細かくメモが取られていたけど、どれだけめぐってもどうしても見つからなかった。最悪の事態がちらつき始め、半分パニックになってもう一度総ざらいするために手帳をめくっていると、ふと、最後のページに目が留まった。

 そこには「相手を尊重しなさい。たとえ自分には理解できないものであっても、否定しないであげて。自分の子供であっても、その子はあなたじゃないのだから」そして最後に小さく「困ったら最初の場所に還ってみなさい」と書かれていた。

 ……こんなこと書いた記憶はなかった。とても達筆でわたしの字ではなかったけど、どこか懐かしくぬくもりがあった。だから無条件に心に届いたのかもしれない。急いで書店に戻ると喧嘩別れしたその場所に息子がいた。

「ごめんなさい」しゃがんで息子の目線に降り「お母さんが悪かった。あなたが好きなものを頭ごなしに否定してはいけなかった。本当に、ごめんなさい」息子は大声はあげず、ただ静かに泣きじゃくり、言葉に満たない言葉を、たぶん謝罪と安堵の意味を、わたしに伝えてくれた。

 

 その後迷惑をかけた書店の方に謝り、もちろん息子がフロアにたたきつけた漫画も購入させていただき、今回の件は落着した。書店の方をはじめ多くの人たちにご迷惑をおかけしてしまったのに、こんなことを思うのは不誠実なのかもしれないけど、この一件はわたしを人として成長させてくれたと思う。

 そんな息子も、この春から大学生だ。あんなに活字嫌いだったのに文学部に進むなんて不思議な気持ちになるけど、息子は「大学はそういうものだよ」なんて笑っている。

 年月が経つのは早い、なんて言葉を口にするにはまだ若すぎるつもりだけど、わが子の成長の早さに比べて自分はどうなんだろう、と思ってしまうくらいには自分も歳をとった。だから、というわけではないけれどペン字の通信講座を習い始めた。字の上手さだけでも追いつけるように。

 月日とともに手帳は買い替え続けているけど、どの手帳にも片隅には必ずあの言葉が刻まれている。息子がいくつになっても刻み続けるだろう。

*1:いま息子に確認したら『こち亀』という漫画だったらしい

*2:記憶があいまいだけど、直後の息子の反応をみるにもっとひどい言葉を投げかけてしまったのかもしれない。