電羊倉庫

嘘をつく練習と雑文・感想など。ウェブサイト(https://electricsheepsf.web.fc2.com/index.htm)※「創作」タグの記事は全てフィクションです。

野球のニュース見て漫画読み返してなんか落ち込んだ話

 先日、佐々木朗希投手と白井一行球審のトラブルがニュースになっていた。いろいろ擁護も批判もあるみたいだけど、野球には詳しくないから具体的なことはよくわからない。礼儀とか権威とか純粋なルールとか人間が判定することの限界とかいろいろなことが議論されているらしい。なんだか単純な問題でもないみたいだ。

 ただ、今回の騒動(というか白井球審への批判)はいろいろなことが積もり積もった結果らしく、Twitterで「ことのぜひはともかく白井球審はストライクゾーンにブレがありすぎる。同じところに投げているのに判定が違うときがある」って批判されているのを見つけた。もちろんおれには真偽はわからないけど、本当だとしたらそれはたしかに問題があると思う。

 ただ、ちょっと不公平というか報われなさすぎるなあ、と思ったのは、審判って福本信行『賭博堕天録カイジ』の村岡じゃないけど、基本的に減点法で評価されて、完璧にやれて当然、ミスったら猛烈に批判される……はちょっと言い過ぎかもしれないけど、苦労に対して称賛されることが少なすぎる気もする。審判なんてそんなものだ、と言われればそれまでなんだけど。

 

 審判って大変だよなあ……そういえば、あだち充『H2』でちょっと似たような話があったな。たしかストライクゾーンギリギリに投げたらボールが宣言されて、主人公の比呂はそれでもまったく同じところに投げ続けて、審判はすべてボールを宣言し、「どうやらちゃんとした審判らしい」と納得する。ストライクゾーンの認識が正確かはともかく、判定が一定でブレがないことを知って安心するシーンだったはずだ。せっかく思い出したんだし、ちょっと読み返してみた。

 あだち充先生の作品は全部読んでいるわけじゃないけど、『H2』は一二を争うほどの傑作だと思う。比呂、英雄、ひかり、春華の絶妙な四角関係や良質な野球描写、野田、木根、柳ら魅力的なサブキャラクター、言葉では多くを語らないラストシーン、と魅力を挙げていったらきりがない。

 ちなみにこの漫画は「成長の差」がテーマの一つでもある。メインキャラクター四人の関係性は比呂の思春期がひかりと英雄とズレていたために生まれたもので、作品の根幹にもかかわってくる。ラストシーンは周回遅れだった比呂がほかの二人よりもずっと多くのことを理解し、大人としてふるまったがゆえのものだったんじゃないかなと思っている。

 

 それで、また思い出す。小学校高学年から中学終わりまでのことだ。Aさん(女子)とBくん(男子)という同級生がいたんだけど、小学校のころはAさんのほうが背が高くちょっと暴力的で、Bくんは運動神経は良かったけど背が低くて力は強くなかった。二人とも活発だったんだけど、その当時はAさんのほうが優位で、争いになっても一方的でBくんの髪をひっぱて泣かせたりしていた。時は流れて中学の初めの頃、Bくんの背丈も伸びて力も強くなった。活発なところは二人とも変わらなかったけど立場は逆転したみたいでBくんがAさんの髪を引っ張って引きずり回していた。中学三年で、その二人は付き合っていたらしい。おれにはぜんぜん理解できないけど、暴力の応酬としか思えないことをしていたのにそうなったらしい。

 思い返してみると中学くらいまでは女子のほうが男子を追い回していたような記憶もある。特に二つ上の学年は女子が身長が高い人が多くて、男子が揶揄うと実力行使をしていたような記憶がある。もちろん、揶揄うやつが悪かったのだろうけど、男の子のほうが実力行使をしていたのを見た記憶があまりない。

 ずっと暴力は男性的なものだと思っていた。事実、理不尽な暴力の代表選手といえる戦争は「男性の仕事」*1だったわけで、映画やドラマのような創作物や多くの人の体験談でも、不条理な暴力をふるうのは基本的に男性の方だ。けど、そのことを思い出してから、ちょっと違うのかもしれないと思った。もっと単純明快なんだと思う。性別によって暴力性が決まるわけじゃなくて、純粋に体格の差が暴力性に直結している。トラブルを物理的な暴力で解決しようとするかどうかは、結局そこで決まる。そんなことを考えながらこんな小話*2を書いたりもした。

 もちろんこのエピソードはとてもミクロだ。たかが半径三メートル以内で起きたことを引用して「人類が~」なんてマクロな話につなげるべきではないのかもしれない。けれど、もし暴力の根源が身体能力の差だとしたら、世界から不条理な暴力を根絶するには、その「身体能力の差」をなくすように、ヒトそのものを造り変える必要があるということになる。SFにはポストヒューマンなんて言葉があるけど、その分野でも最も極端な対処法になる。士郎正宗攻殻機動隊』のような機械化による人体のカスタマイズではない。アルフレッド・べスター「くたばりぞこない」のような均一化やアーサー・C・クラーク幼年期の終わり』のラストシーンのような合一化に近いものだ。それは個性を消失させ、多様性を否定することだ。

 そこまでやらないと「世界から理不尽な暴力をなくそう」というスローガンを達成することはできない。暴力はもっと普遍的なものだから、ある一つの属性に寄り添ったところで意味はない。プレイヤーが入れ替わるだけのことだ。

 

 ……そんなのはただの理屈だ。

 

 だったら、いま現実に傷ついていている人々はどうするのか。いま書いたことはただの理屈で、そんなもので現実の人間が救われることはない。「本質的には~」とか「根本的な解決は~」なんて論法に即効性はない。多少の矛盾や的外れには目を瞑っていま目の前で傷ついている人を救うことのほうがはるかに重要なのでは? SFや学者の言葉を引用した屁理屈なんか当事者意識が足りないから捻り出せただけのことかもしれない。ずっと先のことを考えるより、いま目の前で起きている悲劇を少しでも食い止めることのほうがはるかに正しい。

 だったら……、だったら……、だったら……。

 春は憂鬱だからそんなことばかり考えてしまう。

*1:ジョン・キーガン『戦略の歴史』より……なんて偉い学者の言葉を引用するまでもなく、古代から現代にいたるまで戦争の構成員は基本的に男だった

*2:10P「暴力」