電羊倉庫

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漢の歴史と正当性の感覚

 最近、渡邉義浩『漢帝国―400年の興亡』を読んだ。

 歳をとってからのお勉強*1は「何だっけこれ」と「誰だっけこいつ」との闘いになる。おれも一応の義務教育と一通りの受験勉強を経験したけれど、身についたはずの知識は無残にも鉱滓と化し辛うじて頭の片隅にへばり付いているといった始末で、そうでなくても基本知識が高校までの基礎教育と大学一年で受けた教養講座程度なものだから、やっぱりよくわからなくなることも少なくない。歴史系の本でも西洋史は概説書でも苦戦するし、理科系にいたってはブルーバックスだから大丈夫だろうと手に取った時間とはなんだろう 最新物理学で探る「時」の正体 (ブルーバックス)が想像よりちゃんと物理学をやっていて半分もいかずに挫折し読み流してしまったり、苦手を克服しようと買った*2数学序説 (ちくま学芸文庫)も四分の一くらいでチンプンカンプンになって泣きながら読むのをやめた、なんてこともあった。その点、幼少のころから好きだった古代中国史は「何だっけこれ」も「誰だっけこいつ」も少なくて、(理科学系本と比べると)快適そのものだった。

 で、書籍の内容だけど、主に帝国を支えた思想やそれに伴う政策の変遷が描かれている。漢帝国は前の帝国(秦帝国)の制度を受け継いでいるから官僚になるには法律に詳しいことが求められるのだけど、それに加えて大昔の思想家の考え方(儒学/春秋の義)や漢帝国での教訓(漢家の故事)を把握していることが求められた。法律を杓子定規に適用するのではなく柔軟に運用するための「正当性」を主張するために必要だったからだ。法学、儒学、故事のパワーバランスは徐々に変化していき、末期になると法律知識よりも儒学知識が重視されるようになった。儒教国家として完成した漢帝国への挑戦こそが三国志の始まりとなる……というのが大体のところかな。

 古代中国の思想 (岩波現代文庫)でもそんな感じで説明されていた気がするけど、儒学は時期によって主流の教義(通説?)に移り変わりがある。というのも儒学というのが「昔起きた出来事や昔の思想家が言ったことを解釈する」学問*3で、だから時の統治者がやりたい政策や制度によってある程度融通を効かせることができた。人によっては曲学の極みに見えるかもしれないけど、そういう柔軟さというか、広く解釈できる懐の深さが儒学を(良くも悪くも)中国の歴史に深く根付かせたのだと思う。

 個人的に面白いと思ったのはこの儒学による施策の正当化で、これは「過去を解釈することで現在を肯定する」ことだ。権力の源というか「なんで統治者でいられるの?*4 何を根拠にそんなことするの?*5」に対する回答はその時々で変わったりする。内容は移り変わるけど、理論自体が必要であることは変わらない。理論は大義名分となり、大義名分は正当性の感覚を生む。

 この「正当性の感覚」だけど、ジョン・キーガン『戦略の歴史』で似たような話がでている。

 この本は戦略という言葉の一般的なイメージである「戦争の具体的なプラン」の歴史変遷を検討しているわけではなく、内容は「武器や移動能力、地理条件、文化的背景の制限による戦争形態の比較」といったもので、戦争の文化史に近い。

(…)技術的に遜色ない敵が相手となったそれ以外の海外での戦いでは、軍事教練はまったく異なった道徳的な要因によって圧倒されていた。つまり、合法性の感覚である。(ジョン・キーガン『戦略の歴史』下巻、中公文庫、P198)

 アメリカ独立戦争についての記述。合法性の感覚というのは自分が正しいことのために戦っているという感覚だろう*6

 話を「正当性の感覚」に戻す。彼らは曲がりなりにも人に何かを強制するのには「正しい理屈」が必要であることを理解していた。人を動かすには(もちろん実利は前提として)正当性が必要になる。そして、これは古代中国に限ったことではない。現代でも、何か大きなことを成すには理屈としての「正しさ」が絶対に必要になる。けれど、「正しさ」があると人間は無慈悲で残忍になることがある、とよく耳にするようにもなった。たぶん、これも真理なのだと思う。ネット、テレビ、新聞、雑誌、一般書籍等々どんなメディアでもその一端を垣間見ることができる。

 じゃあ、そういう感覚が害悪かというとそうではないはず。繰り返しになるけど、正しさがないと人は動かない。賢い人ほど正当性を獲得するために知恵を絞るし、まともな「正当性」を捻り出すことすらできない連中の主張がどれほど間抜けで、したがって支持を集められないかは、Twitterネット掲示板のちょっとした地獄を眺めていればすぐにわかると思う。けれど、逆に言うとそれらしい正当性はあるけど、主張する事柄があまり正しいとは言えないことも多々ある。前提は正義で、基本的な主張も正しいのに具体的な行動に移った途端に高圧的で攻撃的になることがある。古今東西老若男女上下左右貴賤人種そのほか諸々を問わず、そういう人はけっこう多い。そして、なまじ「正当性」があるだけに主張を否定しにくいことも多いはずだ。

 善悪は問わず「正当性」はとても強い力を発揮する。いや、「正当性」は善悪を内包する。そして「正当性の感覚」は危険だけど絶対に必要なものだ。古代から現代にいたるまで、そう変わることなく続いてきたのだから絶対不変の真理……とはいえないまでもそれなりの普遍性があると思う*7。もちろん、こんなことは生きていくうえで何の役にも立たない。だけど、生きていればきっといつか「他人に何かをやらせる」立場になることもあると思う。そういう時に「正当性の感覚」がいかに強い効力を持つかということを、たとえ無残な鉱滓であっても頭の片隅に残っていれば、取り返しがつかない攻撃への最後の一歩を踏みとどまれるんじゃないかな……と柄にもなく大仰なことを考えた。

*1:といってもそんなにたいそうなことではなく、ちょっと気になる本を読んでいるというだけのこと。それも軽めの新書がほとんどでそんなに本格的なものはほとんど読んでいない。

*2:初学者向けの入門書と思ってろくに内容を確認せずに買ってしまったのがそもそもの間違いだった。

*3:西洋史は詳しくないから間違っているかもしれないけど、なんとなくキリスト教系の神学っぽい気がする。

*4:血統によって帝位を継ぐことの正当性や失政があったら別の人が取って代わって良いのか、など。

*5:祖先を祭る廟はどこまで保持するのが正しいのか、身体的な刑罰はどのくらいまで許されるのか、など。

*6:「正しいことの白」の中におれはいるッ!(荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』27巻、集英社、P57)という感覚に近いと思う。

*7:この文章が可能な限り個別の事象を挙げなかったのは、これがとても普遍的なことだと強調したいから。くどいけど特定の人々、特定の事象でのみ見られることではない。