電羊倉庫

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フィリップ・K・ディック『小さな黒い箱』[変色した社会問題と神について]

「小さな黒い箱」(The Little Black Box)翻訳:浅倉久志

 解説にある通り『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の原型となった短編*1で、ディック諸短編の中でも特に重要な作品。ディックが人間性について「感情移入能力」を重視したのは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『流れよわが涙、と警官は言った』小説以外では「人間とアンドロイドと機械」などでも明らかだけど、共感ボックスという名が示す通りこの短編には「ただただ苦痛を共有する」だけの道具が登場する。マーサー教について、作中では禅と関係するとか言われているけど、解説にある通りキリスト教がモチーフだろう。共感ボックスは解説にある通り教会がモチーフっぽいけど、マーサー教の在り方はどちらかというと原始的な宗教っぽい。あくまで倫理の延長線というか……。できることなら変な神学にのめりこまないでこっちの方面を追究してほしかったなあ。

 

「輪廻の車」(The Turning Wheel)翻訳:浅倉久志

 ディックは人種問題を題材にする際に実際の属性とは逆に描くことが多い。後段の「ジェイムズ・P・クロウ」もそういうことだし本作もそうだ。科学と宗教の対立で、しかも科学の側に立っているのは珍しい気がしたけど、『宇宙の眼』も科学側ではあるし、そうでもないか。まあ、どちらも宗教に否定的、とまではいえないけど……。どうでもいいけど「輪廻の豚」(「ウーヴ身重く横たわる」)と混同して記憶していた。エルロンの元ネタがL・ロン・ハーバードっていうのはなるほど。一応エルロンは飛行機の補助翼を意味するらしいけど、関係ないだろうなあ。

 

「ラウタヴァーラ事件」(Rautavaara's Case)翻訳:大森望

 上位存在。晩年の良さが十二分に発揮され、悪さが程よく消えている。かなり良い意味でSFらしい作品で、ディック生涯のテーマの一つである神の存在を描いている。水槽の脳の亜種というべき設定も根本的に倫理観の違う異星人の設定も秀逸。二種類の相互理解不能な存在が抑揚の効いた筆致で描写されている。欠点という欠点が見つからない秀作。もっと高く評価されてほしい。

 

「待機員」(Stand-By)翻訳:大森望

 ドタバタコメディ。なんともいえないダメなやつらが謀略というかそれ未満というか……いろいろ動いて最後はちょっと小粋な台詞にまあまあなオチがつく。作中人物たちは大まじめで必死だけど、けど、まあ、大したことは起きない(いや宇宙人が侵略してきてるけど切迫感はない)しある意味では平和というか、なんというか。メインの二人はどっちも政治家には不向きな気がする。

 

「ラグランド・パークをどうする?」(What'll We Do with Ragland Park?)翻訳:大森望

 上記短編の続編。前作よりはやや雰囲気が暗い(物語の筋にほとんどなにの影響も及ぼさない人死にが起きる)けど、相変わらずドタバタと動き回る。あまり深いことは考えずラグランド・パークの特異な能力を楽しむのがいいのだろう。

 

「聖なる争い」(Holy Quarrel)翻訳:浅倉久志

 高性能なコンピューターのトラブルが事態の発端、という意味では前二作と関連した作品。食わせる情報によって予報がどう変わるかをチェックして赤色警報が出された原因を探る、というメインのプロセスは子供のころにやった対照実験を思い出して楽しい。ただ、徹底的な分析で異常がないは確認済みとあるわけだから、オチはちょっと強引のような気はする。

 

「運のないゲーム」(A Game of Unchance)翻訳:浅倉久志

 ゼラズニイ『地獄のハイウェイ』はSFの皮を被った西部劇なわけだけど、この作品も同じくSFの皮を被った時代物的な雰囲気がある。魅力的な(けれど役に立たない)商品と引き換えに生活の糧を奪っていくという手法は西部開拓時代が元ネタなんじゃないかな。理性ではわかっていても手を出してしまうという意味ではティプトリー「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」を思い出す。

 

「傍観者」(The Chromium Fence)翻訳:浅倉久志

 とても好きな作品。ここでも書いた通り清潔党と自然党の対立として戯画的に描かれているけど、敵対する二つの存在のどちらかに与することを強要されることの嫌悪感はとても普遍的なことだと思う。ただ、それはそれとして分析医の言葉(P332-333)にもそれなりに説得力はあり、それだけに呆気ないラストが印象深い。

 

「ジェイムズ・P・クロウ」(James P. Crow)翻訳:浅倉久志

 ロボットと人間に仮託して現実の人種問題を描いている。展開も結論もかなりオーソドックスで(やや悪意がある表現になるけど)当たり障りがない。ただ、それだけちゃんとしているともいえる。大きく得はしないけど決して損はしない短編。

 

「水蜘蛛計画」(Waterspider)翻訳:浅倉久志

 とても楽しい作品。「ぶざまなオルフェウス」を思い出させるけど、実在の他人を主人公格にしているせいか、こちらのほうが生き生きと描かれている。ただ、高速宇宙船内の描写(P419-421)が本筋に活かされていないのはちょっとどうなんだろう。こういう作品が実写化されてもいいんじゃないかな、というのはファンの贔屓が過ぎるだけかな。

 

「時間飛行士へのささやかな贈物」(A Little Something for Us Tempunauts)翻訳:浅倉久志

 設定は破綻している。何度読んでも時間が循環している理屈が分からない。物語の筋を制御できていない。ディックの悪い所がでている。けれど切実な感情の描写が胸を打ち、全体を覆う倦怠感に心の芯が麻痺させられる。ラスト一段の皮肉を交えた文章は美しくタイトルを絡めた落着として機能している。皮肉や嫌味ではなく、本当に小難しいことは考えずにただ純粋に描写を味わうべき作品かもしれない。

 

 

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 主に政治と宗教に関する小説を中心にした短編集ということだけど、政治は「輪廻の車」宗教は「ラウタヴァーラ事件」が代表選手ということになるかな。

 ディックの政治に対するスタンスは正直良く分からない。いや、当人が権力嫌いだったのは『ゴールデンマン』のまえがき(The Lucky Dog Pet Store)等から明らかだけど、その割にディックの描くキャラクターは妙に上昇志向が強くて権力に食い込もうとする傾向が強い。ただ、差別問題に関してはほぼ一貫していて主張も危うげがない。

 宗教というとやっぱり『ヴァリス』の神学談義を思い出すけど、そういう小難しい理屈よりも、もっとコンパクトにまとめた作品のほうがディックの宗教観を表しているような気がする。そういう意味で「ラウタヴァーラ事件」と「小さな黒い箱」はとても重要な作品のはず。

 ベストは「小さな黒い箱」かな。おれのオールタイムベストが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』であることを加味してもキッチリまとまっていて素晴らしい作品だ。完全に余談だけど「小さな黒い箱」をブログの名前にしようかなと思っていたこともある。それくらい好きな作品。結局、肩ひじ張って見えるかな、と思ってやめてしまったけど、あっちでやっても良かったような気はしている。

 最後にもう一つ。ディックの宗教観について書こうとして「ただ隣人にやさしくしろ、と説いただけで迫害された人」*2というキリスト評を引用しようと思ったんだけど、どうしても記載元が見つからない。たしかに読んだ記憶があるんだけど……別の人が書いたのをディックのものと勘違いしていたか、それとも小説作中の人物のセリフだったか、もしくはマジで存在しないものなのか。どなたか「これじゃないか」というのがあれば教えていただけると助かります。

 

 

※作品の発表時期や邦題などは「site KIPPLE」を、一部感想などは「Silverboy Club」参考にした。

収録作一覧

「小さな黒い箱」
「輪廻の車」
「ラウタヴァーラ事件」
「待機員」
「ラグランド・パークをどうする?」
「聖なる争い」
「運のないゲーム」
「傍観者」
「ジェイムズ・P・クロウ」
「水蜘蛛計画」
「時間飛行士へのささやかな贈物」

 

 

 

*1:ほかにも「かけがえのない人造物」も原型の一つ

*2:正確には違うかもしれないけどだいたいそんな感じの文章