電羊倉庫

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『トゥルーマン・ショー』[トゥルーマンと恋人と毒親とおれたち]

※ネタバレを含みます。

 

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「おう、お前が一番好きな映画を教えてくれや。もちろん人生に教訓を与えてくれる考えさせられるような重厚な映画なんだろうなあ?ああん?」と胸倉掴まれ拳銃突きつけられても、「やっぱり『バック・トゥー・ザ・フューチャー』が最高の映画だよ!人類が作り出した至高の映画だあ!」とお目目キラキラさせて答えるくらいには単純明快な娯楽映画が好きで、オールタイムベストに『宇宙人ポール』『バック・トゥー・ザ・フューチャー』『サマータイムマシン・ブルース』『カメラを止めるな!』の辺りが入る人間といえば自己紹介としてわかりやすいと思う。ただ、そういう深みのある映画がどうしても受け付けないというわけではなくて、最近見た作品なら『プラットフォーム』なんかがそういうタイプだったけど、割と好きな作品だったりする。それに物語の隙間を見つけて自分なりの考察なり推察なり妄想なりをねじ込んで解釈するのだって嫌いじゃない。

 というわけで、おれが人生で二番目に好きな映画『トゥルーマン・ショー』の考察……というか身勝手な深読みをふんだんにトッピングした妄想のようなものを書いてみたいと思う。

 以下『トゥルーマン・ショー』を全編観たことがあるという前提の文章になる。「むかし観たけど記憶があいまいで……」という方は詳しいあらすじを乗せている他のブログを読んでもらうか、ぶっちゃけウィキペディアを読んでもらえるとだいたい思い出せると思う。

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 この映画は「実は世界はまがい物で何者かがコントロールしていて、自分は監視(観察)されているのではないか?」というディック的な不安*1を描いている。トゥルーマンは本人が知らぬ間に自分の人生を操作され、それをテレビ放送で全世界の晒されていたけれど、ふとしたきっかけからそのことに気づき、外の世界へと脱出しようとする。過去のトラウマを乗り越えて壁際にたどり着き、いつもの挨拶の言葉を口にして脱出を決行するラストシーンは感動的なわけだけど、この映画で最も重要な場面は最後の最後、モブのおじさん二人の会話だ。

「終わっちゃったよ」

「チャンネル変えろよ」

「番組表は?」

 この場面を最後に物語は幕を閉じる。

 このおじさんは「映画」を観ているおれたちそのものだ。おれたちはこの観客たちと同じようにトゥルーマンの行動にハラハラ、ドキドキさせられつつ彼の行動を見守り、そして最後の選択に拍手喝采する。よくやったトゥルーマン、そうだ、そうするべきなんだ。いやあ、最高の映画だった。

 そしておれたちは彼と同じセリフを吐く。「次の番組は?」

 身勝手に感動し、身勝手に批判し、ことが終わればすぐに忘れてしまう。トゥルーマンのことを本気で心配しているわけではない。当たり前だ。だってフィクションなんだから。どんなに感情移入したってあくまで画面の向こう側の出来事でしかない。そしてトゥルーマンの周囲にいるのは仕事として接している役者だけだ。

 けど、それが悪いわけじゃない。それがフィクションというものだし、むしろ感情移入しすぎて大変なことになってしまうことだってある。悪いわけじゃないけど、どこか残酷な場面でもある。

 そして、そうでない人物が二人だけいる。クリストフとシルビアだ。

 クリストフは番組の総責任者でトゥルーマンの脱出阻止を指揮している張本人だ。彼は模造世界に閉じ込めておくことがトゥルーマンのためになっていると(自覚的かはともかく)本気で思っている。そうでないなら死ぬかもしれない目に合わせてまで脱出を阻止しようとはしない。実際、終盤クリストフはスポンサーの存在をほとんど無視して、脱出阻止を強行する。どう考えても事態は破綻しているのに。クリストフはそういう意味でトゥルーマンを愛していた。視聴者たちや生みの親、育ての親たちよりもずっと。シーヘブンこそがトゥルーマンにふさわしい世界だと本気で考えいたからこその行動であり、だからこそほかのスタッフが後始末に乗り出すなか一人だけ唖然としていた。

 そしてシルビア。彼女は元は役者だったけど本気でトゥルーマンを好きになり、シーヘブンを追い出されてからもトゥルーマン解放運動(?)に取り組んでいた。彼女だけがトゥルーマンを……テレビスターではなく生身の人間としての彼を……愛していた。妻であるメリルでも親友であるマーロンでもない。彼女がトゥルーマンの決意を見届けると、すぐに家を飛び出しのはそういうことだ。彼女だけが唯一、生身の人間としてのトゥルーマンに関心があったからこそ、彼が決意した瞬間に家を飛びだした。テレビスターとしてではなく生身のトゥルーマンに会うために。

 トゥルーマンを一個人として愛していたのはこの二人だけだ。毒親クリストフ恋人シルビア。それ以外の人々は仕事として接しているかもしくはショーとして楽しんでいたにすぎない。モブのおじさんたちの気の抜けた会話にはそういう残忍さがある。

 けれど、だからこそ二人が際立つ。作中劇トゥルーマン・ショーを鑑賞する作中人物モブというおれたちの似姿を通して作中人物トゥルーマンを本当に愛している対照的な二人を浮き上がらせる。世界中の人々が「トゥルーマン・ショー」の主役としか認知しないトゥルーマンにとってシルビアが本当の救いになることが、彼女の行動とそのほか大勢の人との対比によって示される。作中作という特性を生かした完璧な対比構造だ。

 

 たぶん製作陣の意図とは異なる解釈だろうけど、そういう理由でおれはこの映画が大好きだ。

 

 

*1:ディック『時は乱れて』を参考に脚本を作ったらしい