電羊倉庫

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星新一「白い服の男」[普遍性という最高の美点]

 SFの定義は千差万別、人それぞれにたくさんの回答がある。実在の科学をベースにしなければSFではないという人もいれば、面白ければ科学的に間違っていてもよいという人もいる。サイエンスフィクションであり少し不思議でありスペキュレイティヴフィクションでありソーシャルフィクションでもある。そういうその懐の深さ(単なるあやふやさ?)がSFの良さの一つでもあるのだと思う。だからSFの定義を本気で考えても碌なことにならない。SFの歴史を少しでもかじってみれば骨身にしみてわかるはず。

 じゃあ、SFの美点ならどうだろう。これも人それぞれに回答があるはず。現実の科学に立脚して発想を飛躍させて未来世界を描けること、他ジャンルでは不可能な仮定の物語を描けること、思弁的な物語を描けること、発想の豊かさ、論理の冷徹さ、等々、挙げていけばキリがない。いずれにしても「SFの美点」は「SFらしさ」に直結していているといっても良い。

 おれは「仮定IFの下に普遍性を描けること」がSF最高の美点だと思う。そして星新一白い服の男」こそがSFの美点を体現した作品だと思っている。

 この作品は多くの星新一作品がそうであるようにとても短い作品で、管理社会的なディストピアを描いている。戦争根絶のため、戦争という概念自体を闇に葬り去るべく特別警察が陰に陽に活動する、というストーリー。その徹底っぷりは戦争という概念を取得できる書物の廃棄にとどまらず、戦争という概念につながるものを持っているだけで〈人類の敵〉として拷問の末に処刑されるほどだ。

 ストレートに読めば反戦的な物語だ。このくらい徹底しなければ戦争を根絶することはできない、という旨のことを自身のエッセイに書いていた記憶もあるから、ある程度は本心なのだと思う。星新一作品にしては珍しくかなり直接的な暴力の描写がある作品で、同時に公権力による歴史改変や焚書行為という王道のディストピアユートピア描写もある。暗く、救いがない物語。

 この作品に科学は意味をなさない。あくまでIFの文学としてのSFでしかない。「もし、ありとあらゆる手段を使ってでも戦争の根絶を目指す社会が許容されるなら?」という仮定で物語が作られている。そして、この作品で最も重要なのは「完全な平和を実現するために過剰な刑罰によって人々の自由を奪い、あまつさえ歴史改竄や焚書が許される状況にある」ことだ。「平和」と「自由」が両天秤にかけられている。どちらもまごうことなく正しいはずの「平和」と「自由」が対立関係にある。この二者は本来対立する概念ではない。少なくとも現代日本ではとても重要でかけがえのない概念なのは間違いない。なのに、二者択一のような状況に陥っている。

 正しさを究極まで推し進めると別の正しさと衝突する。

 これはなにも「平和と自由」に限ったことではない。今も昔も誰の目からも明らかに正しい主義主張であってもそれを強く推し進めていくと、別の正義と衝突してしまうことは珍しくない。本来は両立すべきだったはずなのに、どちらか一方を侵さざるをえなくなる。正しさは一定のラインを超えると別の正しさと衝突する。この普遍的な真理をこれ以上ないほど皮肉な形で描いているから「白い服の男」は最良のSF作品となりえている。

 SFは科学サイエンスの文学でもあり、仮定フィクションの文学でもある。完全に門外漢だから間違っているかもしれないけどファンタジーも同じく仮定の文学で、そして普遍性という意味ではジョージ・オーウェル動物農場』が最高の作品だ。あれは旧ソ連の状況を寓話的にあらわしているのだけど、あそこに描かれた状況はなにもソ連特有のことではない。大なり小なりおれたちは豚たちであり犬たちであり羊たちであり、ボクサーでありベンジャミンでありクローバーでありナポレオンでもある。

 好きな星新一作品は挙げていくときりがなくなるけど星新一の最高傑作はなにかと問われば「白い服の男」と答える。少なくともSFという文脈の中では「白い服の男」は日本SF史に名を残すべき最高の美点を備えた作品なのだから。