電羊倉庫

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フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』[深刻で真剣なのにコミカル]

 短編の「スパイはだれだ」を原型としたと思われる長編小説。ふんわり死にたがる主人公、精神的な病とそれに由来する閉鎖的な疑心暗鬼と陰謀、作家という職業、偽物として他人に成り代わる、妻とのトラブル、救いの手を差し伸べてくれる少女、不定形生物、星間戦争、二転三転する展開の中でコロコロ動き回るキャラクターたちとディックらしさが遺憾なく発揮されているけれど、ディック長編にしては整合性がとれていて、一応の前振りをちゃんと回収し各キャラクターの行動の理由はそれなりに説明される。最終局面は人間関係と事件の利害関係がこんがらがって大変なことになるけれど、ここまでこんがらがると一周回ってかなり面白いし、どうにか解決して良くも悪くもディックらしくない大団円を迎える。……まあこれだけ色々大規模な騒動を起こしておいて夫婦喧嘩に帰結するのかよと思わなくもないけど、これはいまに始まったことではないから。

 印象的なタイトルだけど、文字通り衛星*1に割拠(?)する氏族たちの処遇がメインに据えられている。血統ではなく本人の性質によって氏族が決まるという発想はわりと好きで、一族の名称と居住する区画の名称のネーミングセンスはかなり良いと思う。おれみたいな英語の素養がない人間のためにも全部の種明かしが欲しかった。

 キャラクターとしてはやっぱりメアリーが強烈で『サンリオSF文庫総解説』にある通りあまりにも獰猛すぎる。いや、夫のチャックがかなり優柔不断でダウナーなことを加味しても行動的で攻撃的で冷淡なところがある。チャックがあんな感じだからその対比で妙に魅力的で、ディックの描く「妻」にしてはちゃんと理性も持ち合わせている。そんな彼女にP313-314で「えっ、そんなオチ!?」というべき設定が降りかかってくる。それ以降の彼女はやや典型的なディックの「妻」でもある。メアリーに関してP322の種明かし、ここは良いなあ。密告者が妻で、しかもある種の善意だった。

 第二の主人公っぽいべインズは冷静で知的っぽいけど異常に心配性で倫理観がかなりずれている。特にP218で突然飛び出す意味不明な計画には読みながら呆気にとられた。誘惑って…なんだそれ。

 主人公であるチャックの職業であるシミュラクラのプログラミングは大衆向け小説≒ SF作家がベースかな。なんとなくディックの自己投影(主流文学への挫折)を感じてしまう。幻視者がでてくるのもディックらしいけど、この設定は物語にあまり貢献できていないと思う。先述のべインズを含めてディックの描く男のキャラクターは全般的にそうだけどいくらなんでも色仕掛けに弱すぎて笑ってしまう。特にP168、そしてP185の流れはびっくりするほど情けない。魅力をほとんど感じない主人公だけどP195のジョウンのセリフがあって良かった。ディックもこの男の魅力の無さにはある程度自覚的なのね。

 個人的にはけっこう好きだし、良い作品だと思う。ただ、シミュラクラ(≒アンドロイド?)の遠隔操作による潜入調査と私的復讐/コメディのシナリオライターの二重生活という設定をもっと生かしていけば、『サンリオSF文庫総解説』にある通りコミカルな作品なのだから、コメディ版『暗闇のスキャナー』というべき傑作になったのでは……と正直残念でもある。序盤の設定読んだ段階ではそういう方向に進むと確信して「すげえ隠れた名作じゃん!」とワクワクしながら読み進めたんだけどなあ……。最終局面は人間関係とキャラクターたちの目的が錯綜して誰が何をしようとしているのかこんがらがるけど、オチはミクロなものでわかりやすい。

 感想に組み込めなかったので二点だけ簡単なメモ。

・P298:チャックのセリフ「いつかどうでも~」は好き。たしかにそういうものなのかもしれない。
・P300:ここのロード・ランニング・クラムの回答は好き。本質が「愚かさ」というのは的確な評論。疲労と躁鬱はディックの特質でもある。

 最後にあとがきについてだけど、マルツバーグが妙に凝った構成の文章を書いている。本作自体のあとがきというよりマルツバーグによる簡単なディック評論といった感じかな。P330の『アルファ系衛星の氏族たち』では〜、の箇所が特に的確だと思う。個人的にはP332から始まるディックのSF観への批評が気に入っている。たしかにディックはSF的な設定を詳細に語らない。たぶんそういうことに興味がないのだと思う。

*1:本文中では「月」で原文も「Moon」だから衛星はちょっと違う気がするんだけど、インパクト重視の翻訳なのかな。