電羊倉庫

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フィリップ・K・ディック『あなたをつくります』[なんかすごいの読んだぞ]

 なんだかすごい小説だった。

 商売がうまくいかず崖っぷちにいる男たちが乾坤一擲の新商品を開発する。それはシミュラクラと呼ばれる模造人間で、大量の資料を読み込ませることで過去の偉人を精密に再現することができる。その開発の気苦労とか人間関係のいざこざ、そのシミュラクラを売り込む先の実業家サム・K・バローズとの丁々発止のやり取り……というのが本編三分の二くらいの内容。シミュラクラはディック頻出のモチーフである機械生命体(アンドロイドとか殺人兵器とか)。プリスという名前は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に登場するネクサス6型のアンドロイドと同じである。プリスが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で重視された感情移入能力に欠けることは明らかなのに対して、作られた存在であるシミュラクラたち、特にリンカーンを模したシミュラクラは思いやりに満ちている。これはまさに『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の主題である「人間性」というものを、立場を逆にして描いているのだ。ディックにとって「人間性」とは人造物であるか否かで決まるものではない。心の在り様で決まる。だからこそ、シミュラクラであるリンカーンはヒトを思いやり、プリスは他人の気持ちを歯牙にもかけない驕慢さを見せる。こいつはすごい作品だ。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』をさらに一歩先に進めた傑作になるぞ!!

 ……ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。プリスがバローズの元へと去ってから主人公のルイスは狂気を加速させる。元々ちょっと精神的に不安定だったのが恋心を抱いていたプリス*1が完全に自分たちを見捨てて栄達(……と呼ぶにはいかがわしすぎるけど)していくことで理性のタガが外れて感情のコントロールを失ってしまう。自分が何をしたいのか自分自身でよくわからないままにプリスを追いかけてシアトルへ旅立つ。取り戻すのかいっそプリスを殺すのか自分が死ぬのかバローズを殺すのか。思い付きで行動するから事態が迷走し始める*2。錯綜した精神状態は結局破綻してしまい、政府管轄の治療施設に収容されることになる。

 施設に収容されてからの約50ページはまったくSFではない。ただひたすらルイスの治療が描写される。幻覚による現実崩壊感覚はディック的であるがSFの文脈によるものではない。もちろん、この治療方法は現実にあるものではないだろうから、それをもってSF要素が活きていると強弁できないこともないけど、少なくともそれまで約350ページかけて描いてきたシミュラクラを巡る物語は最終的な物語の結末に何にも寄与しない。

 SFだけどSFじゃない。

 解説によると本作はディックが主流文学で身を立てようとしていた時期に書かれた作品らしい。元々ディックはSFではなくて主流文学を志していたわけで、そういう意味で本作はディックの未練と商業作家としての技能が歪な形で結合した作品であるといえる。前半部分はかなり良い意味で従来のディックらしいSF作品だったのが、急転直下まったく別の作品に変貌して、SFから離れたところに着地する。前半部は確かに『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の変奏曲的な作風だったけど、後半部は『暗闇のスキャナー』の前身的な作品だったように思う。

 群像劇的な作風の多いディックだけど、本作は完全に一貫してルイスから視点が動かない。ルイスは徐々に精神に変調をきたすのだけど、それ以前に序盤からして自分の子供くらいの女の子に本気で恋をするヤバさをもっていたし、なんともいえない粘着質な気性に嫌気がさして少しずつ好感度が落ちていく。だから序盤はプリスに苛立っていたけど、段々彼女の罵倒がに爽快感を覚えるようになった。特にP281-282の罵倒は爽快。

 プリスは驚くほど性格と口が悪いけど、罵詈雑言の主な対象がルイスだからなのか、それとも突き抜けすぎてちょっと笑えてくるからなのか、あまり嫌いになれない。もちろん身近にいてほしくはないけど。もっとも、プリスの言動は患っている病気に因るよところも大きいのだからあまり軽く扱うべきではないのかもしれない。ただ、「病気で自身でコントロールできることではないのだから強く責めるべきではない」と「それはそれとして腹が立つ」は両立しえると思う。

 面白かったかと問われると即答できない。不思議な作品だった。少なくとも前半部を読んだときに期待した作品ではなかった。隠れた名作とまではいえない。けれど、好き……かもしれない。いや、そこまで好きではない気がするけど嫌いではない。それにSFから離れたラストシーンにはどこか爽快感がある。

 本作は『暗闇のスキャナー』の前身的な作品かもしれない、と書いたけど、そう考えたときに本作の読後感が『暗闇のスキャナー』とは真逆だったことに気づく。傑作とは言い難いけど、どちらかというと好き寄り。ハッピーエンドとは言い難いけど、読後感はどこか爽やか。本を閉じて「なんだかすごい作品を読んだぞ」としばらく茫然としたことが、おれの本作への評価そのものだったのだと思う。

*1:おい、ビジネスパートナーの娘だぞ/ちょっとは年齢差のことを考えてくれよ……というのはいつものことだけど、それに加えて本作に関しては「いやいやルイスさん、プリスのどこがそんなに良いんですか。言っちゃ悪いけどびっくりするほど性格が悪いっすよ」と言いたくなってしまう。黒髪の健康そうな若い娘ならなんでもいいのか?

*2:この辺の作風は『タクシードライバー』なんかに近いかも。