電羊倉庫

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フィリップ・K・ディック『小さな場所で大騒ぎ』[罪と報い……ではなかった物語]

 ディックの主流文学作品。電化製品店、倦んだ家庭と不倫、複数人物視点、破綻による物語の収束……と、かなりいつものディック。死後出版された作品*1だけど訳者解説によると執筆自体は1950年代後半から1960年代前半と推測されている。だとすると日の目を見なかっただけでかなり初期寄りの作品ということになる。

 文体に関して言うと、序盤はあまり好みじゃなかった。訳者解説によるとヘミングウェイを彷彿とさせる文体らしいけど、個人的にはイマイチ。ただ、それが七章あたりから落ち着いた筆致になる。七章冒頭部P126-127は非SFディック作品の中でも上位に来るくらい好きな文章。落ち着いた余裕のある筆致は『高い城の男』の完成度に近しいものを感じる。上述の訳者解説が正しいとすれば1962年発表の『高い城の男』前後に執筆された作品なんじゃないかな、と思っていたりする。

 内容は上述の通り、いつものやつ。但し、主流文学作品なだけにディックの長篇小説でよく出てくる三角関係をより丹念に描いている。不倫が主題な作品だし、タイトルの通りごく身近な範囲のごたごたを描くことに終始しているから読んでいて楽しいものではない。いつものSF作品ならSF的なガジェットやギミックで(B級であるにしても)ある程度の娯楽性が担保されるけど、本作にはそれがない。そういう意味でストーリーは特筆するようなことはない……はちょっと言い過ぎだけど、おれは普通にいつものSFの方が好き。

 ただ、上に書いた通り筆致は世評も芳しい『高い城の男』に近しいものがあるし、各キャラクターの心情描写に理解できない飛躍があるわけでもなく、キッチリ段階を踏んで事態の破綻へと突き進んでいく。息苦しい時代の閉塞的な環境における小市民的な男女の俗悪でだからこそ切実な欲望の渦が上手く描けている……と思う*2。

 ちょっと「おっ」となったのは「報い」が描写されているという点。子供の養育問題、人間関係、仕事関係、夫婦関係、といった日常生活への苦悩や苦痛を描きつつふとした拍子に不倫の沼に足を踏み入れて、そして終盤でキッチリ破綻する。ディックにしては珍しく(?)不義による報いが描かれている。すべての物語が道徳的であるべきとは思わないけど、ディックの不倫物語はあまりに「不倫発覚後も続く人生の惨めさ」を無視することが多かったから、本作終盤でそれが描かれているのにはグッとくるものがある。破綻と報いによって物語は幕を閉じるのね……と思ってたら懲りずに不倫かよ! 

 それでいいのか。まあ、うーん……いや、良くはないと思うしマジでなんの解決にもなってなくないかと思ったし、正直ちょっとズッコケたし、罪と報いの流れは何だったんだと思ったし、それで終わって良いのかよと思った。ただ、学校でのロジャーとリズの密会は妙な清涼感があるんだよなあ。んー、ううん、清涼な場面なんかじゃ絶対にないはずなんだけど、なんでなんだろう……。

 あと、どうしてこういう男はすぐに子供を欲しがるんだろう。いや、ヴァージニアとの間に子供がいないのなら(道徳的にはともかく)心情としては理解できるんだけど、いるじゃん、もう子供が。けっこう育つのが大変そうな子がいるじゃん。妻子捨ててすぐに新しい子供が欲しいってさあ、なんか、こう……もうちょっと目の前の子供を大切にした方がいいんじゃないの? 子供どころかその何歩も手前で躓いたまま動けないでいるおれが言うのもなんだけど……猫の子じゃないんだからさ。

 細かい所を二点だけ。 P222は「SF」のディックっぽくて好き。リズはいままでのディック作品にはいないタイプ、と思ったけど『時は乱れて』のジュニーがかなり近しいキャラクターだった。その辺からも初期っぽさが感じられる。

 ついに店がもてるんだな、と車の中で思った。が、屈辱の悔し涙がこぼれ出て、頬を伝わり、シャツや腕にぼたぼた落ちた。手首の毛のあいだをつるっと滑り、ズボンを濡らした。赤信号にさしかかったところでハンカチを取り出し、頬と首をふいた。悪口雑言を吐き散らした。彼自身と、妻と、ワトソン夫人と、彼を殴った黒人と、六十ドルをふんだくった歯医者と、アーカンソー行きには役立たなかった車を売りつけたセールスマンと、ベス電気器具センターで修理部門を開かせてくれなかったジョン・ベスに向かって、とめどなく涙を流しては顔をぬぐい、妻の待つ戦時住宅団地のアパートへと車を走らせた。(P200)

 ここ好き。

*1:本国での発行は1985年

*2:普段主流文学作品をあまり読まないから、本作の感じがどれくらい「上手い」のか断言できない。読書の偏りを反省している。