電羊倉庫

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キミは熱血ギャグ漫画家、島本和彦を知っているか?

 君は島本和彦先生*1という漫画家を知っているだろうか。

 北海道で生まれ育ち、大阪芸術大学では同級生だった庵野秀明監督らと交流(?)し、現実と理想のギャップに苦しみながらも確かな観察眼で時流を読み、創意工夫で夢を掴んだ男、島本和彦を知っているだろうか。

 本業の傍ら様々なイベントにも精力的に参加し、一時はラジオMC、現在は社長業をも兼ねている多忙な漫画家、島本和彦を知っているか。

 オリジナルでは初の連載作『炎の転校生』で一世を風靡し、その後いろいろなことがありながらも意欲的に漫画を描き続け努力をかかさず、ついには『アオイホノオ』で小学館漫画賞の栄光に輝いた男、島本和彦を知っているだろうか。

 

 ……と、偉そうな書き方をしているけど、島本作品はタイトル数がかなり多いし諸般の事情で紙の本として入手しにくいものもあるから全作品を読めてはいない。だからあまり大上段で語るべきではないのかもしれないけど、とても好きな作家の一人だからどうしても語ってみたくてこの記事を書いている。だから「島本和彦論」とかそういう肩肘の張ったものではなくて、もっと気楽な「ぼくが気が付いた島本和彦の良いところ!」くらいの文章として読んでもらいたい。

 

 まずはやっぱりギャグだ。半自伝風フィクション漫画『アオイホノオ』ではやや自虐的に描いているけど、絵をかいてそれに言葉を付ける漫画というスタイルで人を笑わせることに関して島本和彦には無類の強さがある。絵がないと成立しないけど言葉がなくても成立しない。

 例えば『炎の転校生』後半に騎馬戦で戦うシーンや、『吼えろペン』で強盗の似顔絵を描けと迫られたアシスタント大哲が提出したイラスト、『仮面ボクサー』最終章前編の最後の流れなど。読みきりならば「恋の資格がナッシング」「ほとんどヒーロー」「ブライダルソルジャー」など、挙げていけばきりがない。もちろん、これらのギャグの何が面白いのかを文章で説明するほどアホ(もしくは自信過剰)でもないから、ぜひこの辺の作品をどうにかして入手して読んで、笑ってほしい。

 ちなみにこの中では『仮面ボクサー』が比較的力技で『炎の転校生』が技巧的だ。力技は勢い重視で、技巧は言葉遊びに近い、というと分かりやすいと思う。こういう剛柔どちらも取り入れて上手に使っているところはやっぱり天性のセンスなんだと思う。

 

 そして上記のギャグセンスと人を奮い立たせる熱血が絶妙なバランスを保っているところが素晴らしい。島本和彦は熱血展開がある程度続くと半ばギャグとして冷や水を浴びせる展開を作ることが多い。そして主人公は冷や水を浴びせられながら、絶妙な屁理屈を真剣に考え、そこから立ち上がり前を向く。一冊の単行本の中で腹を抱えて笑い、ちょっと冷静になり、そして人生を切り拓く漢気……とまではいかないまでも、前を向くためのささやかな勇気がもらえる。

 多数の島本作品の中で最も均衡がとれているのが『逆境ナイン』だ。地区大会予選で100点差をつけられるという他に類を見ないかなり破天荒な展開を真剣に描いて読者の笑いを誘いつつ、そこからいかにして事態をひっくり返すかをまた真剣に描く。展開も解決方法もかなりフィクション係数が高いけれど、一貫して真剣に描かれているからある種の爽やかさがあり熱気で胸が熱くなる。そして終盤には度肝を抜く展開やある種の王道を描きつつ、作品のテーマに決着をつけて終結する。もちろん、これは『逆境ナイン』に限らず、ある程度長く連載したストーリー漫画(『男の一枚 レッド・カード』など)にはそういう傾向がある。

 これがファンを惹きつける最大の魅力だ。

 

 そしてあまり言及されないけど、最大の美点はバランス感覚だと思う。先段の説明の通り、島本和彦はある程度熱血な展開を続けたあとに冷や水を浴びせる展開を作るけれど、その役割を女性に負わせることが多い*2冷や水を浴びせるというのはつまり「別の視点」を描くということで、自分の主張≒主人公の言動にクエスチョンマークを付けるということだ。ここでもちょっと書いたけど、やっぱり自分の主張や善悪に対する客観性を保つこと、そして自分と異なる属性のキャラクターにある程度いい役割を負わせることは、作品が独善に陥らないために大切なことだ。

 そんなの当たり前だろ、と思う人もいるかもしれないけど、全くそんなことはない。おれも他人のことをとやかく言えないかもしれないけど、客観視やバランスをとると言うことに少しも気をかけていない商業作家*3なんかいくらでもいる。特に年老いた作家はだんだんと客観性を失い自分を全肯定し始める傾向がある*4。だからこそ30年以上創作を続けながら一定のバランスを保つことがいかに難しいかがわかってもらえると思う。

 攻撃的であまり良くない書き方になってしまったけど、これは島本漫画が読みやすい要因の一つなはずだ。

 

 ジャンルとしてはギャグと熱血しか取り上げなかったけど、島本作品はそれだけではない。パロディ漫画(「あしたのガンダム」など)だったりシリアスな漫画(『BATTLEフィールド』など)なんかも描いている。ちょっと変わり種でいえば『ワンダービット』はオムニバスSF漫画集というべき作品で、実験的な手法で作られたり、設定がかなり凝っていたりと島本作品で五指に入るほど面白い。SFと言えば、諸般の事情で短期で終了してしまったけれど『アスカ@未来系』はもっと長く続いて欲しかった作品の一つだ。コミカライズもガンダムウルトラマン仮面ライダーとキチンと作り上げている。こういう幅の広さが漫画家を長く続けていられる秘訣かもしれない……なんて偉そうな言い方になったけど、結局のところ言いたかったのは下記の一文に要約される。

アオイホノオ』の続きを、そしてあわよくば新しい物語を、もうしばらくだけでも楽しませてほしい。

 

 

 

 完全に余談だけど、『吼えろペン』には盟友の藤田和日郎先生*5の漫画『からくりサーカス』のパロディ『からぶりサービス』が登場するんだけど、この漫画経由で藤田和日郎に興味がわき、『うしおととら』を始め藤田漫画を集めるようになった。そういう意味では島本和彦は間接的に藤田和日郎を紹介してくれたと言うことになる。

 ただ、本家を読む前にパロディを読んでしまったもんだから色々誤解していて、『からくりサーカス』の主人公である才賀勝が『からぶりサービス』の主人公である食賀優のようなこと*6になってしまうものだと思い込み、ずっと暗い気持ちで『からくりサーカス』を読み進めていた。結局そうはならなかったんだけど、もし事前情報(?)なしの純粋な状態で『からくりサーカス』を読んでいたらどんな気分で終盤を迎えていたんだろう……と考えてしまう。

 

 

 

 

*1:以下敬称略

*2:炎の転校生』高村友花里、『吼えろペン』星紅など

*3:一応断っておくと漫画家に限らない

*4:本編とは関係ないから注釈に入れるけど、自分の作品で自分の主張を声高に叫び、周囲のキャラクターに全肯定させるだけの作品を描くようになる。誇張された悪役を正義の主人公が言論で叩き潰し、周囲の人間はただ「なんて正しいんだ」「よく言ってくれた」と賛美する、という作品は結構多い。もちろん娯楽としては正しいかもしれないけど……あれは一種の創作の墓場だ。

*5:以下敬称略

*6:島本和彦吼えろペン 第八集』P171

最近見た存在しない映画(2021年11月)

脱走と追跡のサンバ(1981年、日本、監督:尾令正子、125分)

 凄まじい映画だった。かなり原作に忠実(というか忠実過ぎる)で狂騒と混乱と饒舌と思考と嘲笑と脱走と追跡に満ち溢れていた。ただ画面の切り替わりが多いわりに場面の切り替わりが少なくいのがちょっと気になる。あと技術的に仕方ないけどやや画質が荒くて*1余計に辛いところがあった。特に序盤のボートのシーンで画面の乱れがかなりきつくて、場面の意味を考えればもしかしたら意図的なものなのかもしれないけど……。

 世界がおかしくなっているのか、自分がおかしくなっているのか、もしくはその両方か。原作はそういう問題ではなかったような気がするけど映画のほうは世界がおかしくなって、その結果として「おれ」がおかしくなった、という立場をとっていた……と思う。もしくは映画もそういう問題ではなかったのかも。この辺はもう一回見直さないと断言できない。

 この映画最大の仕掛けはエンドクレジットにある。かなり昔の映画だからさすがにネタバレで怒る人はいないだろうし、軽く感想を漁ってみたらクレジットの意図が伝わっていない人も多かったから書くけど、キャストのクレジットがアニメでいう原画や作画スタッフのように具体的な役名もなくただ羅列されていたのは全役者が全役をランダムに演じているからだ。だから序列が存在しないように円形にグルグルと表示され、しかも流れている間にも名前の位置が入れ替わっている。全役者が……子役もベテランの俳優も若手の女優も……「おれ」であり「緑色の服の男」であり「正子」であり「正子の父親」であり「ボート屋の男」でもある。こんなむちゃくちゃを成立させている役者の演技力もすごいけれど、違和感なく画面映えさせているメイクや特殊効果の技術もすさまじい。アイディアを思いつくところまでなら簡単だけどキチンと成立させているからこそ価値がある……という古今東西の文学作品に通じる価値がある映画だと思う。

《印象的なシーン》「おれ」が時計店に来訪し続けるシーン。

 

 

プリティ・マギー・マネーアイズ(1978年、アメリカ、監督:スレイ・ハーソン、89分)

 エリスンの煌びやかな文体が良く反映されていると思う。おれにはよくわからなかったけど、感想を漁ってみると諸々の小道具にエリスンらしさがにじみ出ていて、監督はエリスンのことをよく理解しているらしい。そのへんは判断できないけど、少なくとも華やかなカジノとみすぼらしい主人公の男、そして妖艶な瞳のマギーという三要素はキッチリ抑えてあるし特に変なアレンジも加えられていない。好印象の映画だった。

 ただ、やや単調で退屈になる場面も少なくなく、時代を考えてもエフェクトが安っぽすぎるという致命的な欠点もあった。他の箇所ならともかくよりにもよって終盤の解放と束縛のあの瞬間にこれが来たものだからちょっと……いや正直に言ってかなり興ざめしてしまった。もう少しどうにかならなかったのか。あと主人公の男のみすぼらしさを強調するあまりちょっとみっともなさすぎるシーンがいくつかあったのは良くない。個人的にエリスンの小説の中でも特に好きな短編ということもあってちょっと期待しすぎていたところがあるにしても、この辺はやっぱり批判されても仕方ないんじゃないかなとは思う。

《印象的なシーン》嗤う瞳。

 

 

劉邦項羽(2016年、日本、監督:卯金刀邦季、155分)

 まさか邦画で楚漢戦争が観れるなんて!「歴史ものなのに地味」「戦争描写が少なすぎて娯楽性に欠ける」「劉邦項羽も変な描かれ方をしている」と、評論家筋から大層評判が悪いみたいだけど、かなり不当な評価だと思う。二時間半近くあるとはいえ続編なしの単発映画で劉邦項羽の生涯60年近くを描ききっている点はちゃんと評価すべきだし、そういう意味では戦争シーンを大幅にカットしたのは英断だ。それに劉邦像や項羽像が一般に流布しているものと違うからといって「制作陣は中国史がわかっていない」なんて狭量がすぎる。もちろんこれは逆側にも同じことが言えるけど、今回はとりあえず関係ないのでとやかくは書かない。

 戦争シーンを大幅にカットしているだけあって政治劇、思想的な闘争については他の追随を許さない濃さがある。個人的に画期的だと思ったのが劉邦項羽の国家観の違い……というかブレーンたちの統治観の違いだ。統一後に名乗った称号や行動も対比的で、善悪と言うより受けてきた教育*2の違いとして描いているのは素晴らしい着眼点だ。その分極端な悪役がいないからカタルシスには欠けるけどかなり公平な作品に仕上がっている。

 もちろん晩年の粛清については若干……いや、かなりきつく描かれていている。とくに韓信はともかく盧綰と樊噲を疑ったのは劉邦の生涯で拭いきれない汚点の一つとして克明に描かれている。けれど、それでも従来の作品にありがちだった「往年は仁君、晩年は暴君」みたいな描かれ方をされてなかったのは高く評価したい。劉邦/呂后による統一直後の粛清(と張良と蕭何の進退の選択)こそが彼らと始皇帝を分かつ最大の特徴で、良い意味でも悪い意味でも後世のモデルケースになっている。試行錯誤を繰り返し発展したり原始に帰ったり、太平の世が現れたと思ったらちょっとした地獄が出現したりと、そういう中国史のスケールを感じさせるラストシーンも素晴らしい。

《印象的なシーン》辞官を申し出る張良を見つめる劉邦

 

 

ニッポンの農業の夜明けの始まり(2013年、日本、監督:日野元太郎、60分)

 日本で行われているありとあらゆる農業を肯定的に捉えなおすというコンセプトの映画らしいけど、さすがに範囲が広すぎて60分で深く掘り下げるのは不可能だったらしく、かなり散漫な作品になってしまっていた。だったら、例えば比較的長尺で取り上げられている稲作と梨農家に絞って作ったほうが良かったのでは?あと妙にトラクターを推してたけどヤンマーがスポンサーにでもついていのか?

 ただ、そういう手の広げ方(とタイトルのセンス)はともかく、真剣に日本の農業のことを考えて作られた映画だということはわかる。だからあまり批判はしたくないんだけど……あまりに矢継ぎ早すぎて「ポケモン言えるかな?」みたいだった。ちなみに監督名は複数人の合同ネームらしい。日野元なのか、元太郎なのかちょっと気になる。

《印象的なシーン》冒頭のトマトが実るまでを定点カメラで観察した映像。

 

 

暗がり(2000年、日本、監督:真崎有智夫、10分)

 なんだこれ。オープニングもなにもなくいきなり真っ黒な画面が映し出され、何の動きもなく虚無みたいな10分間がただひたすらに流れ、あっけなく終わった。は?なにこれ?画面に反射して移った自分の顔しか見えなかったんですけど。

 意味不明すぎる。そもそも本当に映画なのか?最初はアマゾンプライムの不具合だと思ったけどそうではないみたいでちゃんと大手映画情報サイトなどに記載があった。ただ、どれだけ探しても監督以外のスタッフの名前すら出てこない。感想を漁ってみると「数秒ごとに色合いが微妙に変化している」とか「コンマ数秒ごとにアニメーションが挿入されている」とか「明度を挙げるとうっすらと文字が浮かび上がってくる」とか真偽不明の情報がでてきた。本当かよ……10分程度とはいえさすがに少しの意識も切らさずただ暗いだけの画面を見続けるだけの集中力はないから確認する気にはなれない。どこぞのカルト組織で流されていた洗脳ビデオを見ているような気分だった。

《印象的なシーン》なし。

*1:2017年にデジタルリマスター版が出ていることをさっき知った。入手しなければ……

*2:帝政への理解度や実務処理の重要性の認識の違いなど

好きの言語化と嫌いの理由

 ちょっとした思い出と最近の出来事。

 

 人間歳をとると偏屈になるというけど、幼少期のほうが嫌いなものが多かった。それこそ中学校を卒業するくらいまでは物語に対して本当に偏屈で、とにかく星新一的などんでん返しオチがついてない物語は物語と認めてなかった*1。教科書に載っているタイプの物語は論外で、唯一の例外が中島敦だったけど、それも中国史が好きだからというだけのことで、文体が素晴らしいとかテーマ性が好きとかそういうわけではなかった。

 文章の善し悪しを一切判断できなかったあのころの自分は世界で最も美しい文章であるレイ・ブラッドベリ「万華鏡」は一ミリも理解できなかっただろうし、なんだったら筒井康隆脱走と追跡のサンバ』やジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』などの傑作も無造作に放り投げていたと思う。

 それが高校くらいから徐々に軟化した。純文学と呼ばれるジャンルにもちょっとだけ手を出したり、江戸川乱歩経由で夢野久作に出会ったりして、だいぶ星新一的ではない物語も受け入れられるようになった。決定打は心に余裕ができた大学時代にSFを経由して「奇妙な味」という存在を知ったことで、「あっ、世の中には強烈なオチが無くても面白い物語があるんだ」と理解できて、ようやく妙な自縄自縛から完全に解き放たれた。いろいろなものをちゃんと楽しめるようになり、前よりずっと純粋に多種多様な物語を楽しめている。

 

 最近は自分の好みも分かってきた。

 短編ならアッと驚くオチがあるのなら残酷な結末でも構わないけど、長篇ならとにかくハッピーエンドが好きだ。もし読者を惑わせ混乱させるようなタイプのストーリーなら、「わかりそうでわからないけどなんとなく納得できる」ものが好き。

 文体でいえば、地の文が三人称形式ならあまり砕けていないものが好きだけど、一人称形式なら現実の話口に近くて饒舌なものが好き。そのほか細かいところで言えば、ひらがなにあまり開かない*2ほうが好きで、他にもSF作品なら漢字で構成された造語に原文の言葉をルビで振って*3いるものが好き……と他にもいろいろあるけどざっとこんなところだ。

 

 もちろん、いまも嫌いなモノはある……ということに先日気づかされた。名前は出さないけどある作家の小説が本当に心の底からムカついて、読み進めるのが苦痛で、投げ捨てたくなるほどだった。けれどこの小説は低劣な作品なわけではなくて、商業出版されるくらいの水準に達していてちゃんと面白いはずなのに、どうしても受けつかなかった。読み進めるのがこんなに苦痛だったのは久しぶりなほどだったけど駄目な作品ではなかった。ただ嫌いな作品だったのだ。

 なんでこんなに「嫌い」なんだろう、と思いながらお気に入りの作家の小説に逃げていて理由がわかった。文体だ。あの語り口は小学生のころに読み聞かせに来てくれていた方々のもったいぶった、丁寧な、そしてどこか子供たちを見下した*4もののようで、どうしても耐えられなかったんだ。もちろん、その小説はそういうコンセプトの作品なわけだけど、そうとわかっていてもどうしても受け入れられなかった。

 ちなみに駄目なモノにも触れる機会があった。某ドラマ番組の中盤くらいだったと思うけど、さっきまで自力では脱出不可能な場所に閉じ込められていたはずの刑事が、真犯人が暴かれるシーンで何の説明もなく当然のようにその場にいて犯人を逮捕していたことがあった。その後のフォローも一切なくその話は終わった。細かいトリックの整合性とかそういうことではなく、もっと初歩的な不手際*5で、これは放送しては駄目なレベルなのではと驚いたことを覚えている。ちなみにそのドラマはいまでも好きだけど、やっぱり駄目な作品の代表格として記憶している。

 こんな風に駄目な作品が嫌いとは限らず、嫌いな作品が駄目なモノとは限らない。

 

 ほかにもいろいろあるけど、そういう映画/小説/ドラマ/アニメ/漫画/演劇/音楽なんかに費やした時間が完全に無駄だったかというとそうではないと思う。

 嫌いなモノには理由がある。もちろん駄目なモノにも、反対に好きなモノにも。なぜそれを好きだと思うのか/駄目だと思うのか/嫌いだと思うのかを考え、文章にまとめることはとても意味のあることだと思う。自分のものはもちろん、他人の「好き/嫌い」の理由は参考になることが多い。

 作家志望者は「嫌なモノや駄目なモノなんて不純物は見ない方がいい」という話をよく聞くけど、そうではないと思う。単なる受け手なら、そりゃあ、好きなモノとか出来がいいモノばかり見ていた方が精神衛生上よろしいだろうけど、作家志望はそういうわけにはいかない。嫌いなモノや出来の悪いモノにもあえて触れて、その理由を言語化することは、好きなモノや素晴らしいモノを言語化することと同じくらい大切だ。だからもっとたくさんの「嫌い/ムカつく/駄目」に触れて、それを言語化していかなければならない。教師と同じくらい反面教師も大切なのだから。

 

 

 というわけで今日も星新一と某作家を交互に読み進めている。

 

 

*1:いま読み返してみると星新一の作品にもそれほど強烈なオチがついていない作品もある(「白昼の襲撃」「冬の蝶」「泉」など)けど、たぶん都合よく忘れていたか無視していたんだと思う

*2:常用外漢字でも熟語ならそのまま使ってほしい。「躊躇」とか「被曝」とか

*3:ウィリアム・ギブスンニューロマンサー』での「没入ジャック・イン」のように

*4:当時来てくれていたボランティアの方々には本当に申し訳ないけど、教養深くてとても優しい物語をゆったりとした口調で読み聞かせられるのは、馬鹿にされ見下されているようで本当に嫌だった。もっとちゃんと面白いものを真剣に読んでほしいと願っていたことをいまでも思い出す。

*5:それこそ外部の誰かが閉じ込められているの気づいて助け出す、みたいな短いシーンを挿入すればそれでよかったはずだ

もっと評価されるべきポルノグラフィティの楽曲「Love,too Death,too」

Love,too Death,too」(作詞:新藤晴一 作曲:ak.homma 編曲:ak.homma,PornGraffitti)

 

 こんなタイトルを付けておいてなんだけど、そんなに嫌われているわけではないと思う。作詞作曲は初期から中期くらいまでの王道の組み合わせ(新藤晴一さん*1本間昭光さん)で作られているし、ブログや個人サイトを覗いてみても嫌いな曲リストに入っているのもあまり見たことがない。「Uta-Net」でのアクセス数は全ポルノグラフィティ楽曲中38位(2021/11現在)とそんなに悪い数字*2ではない。ただ「ねとらぼ調査隊」のシングル曲ランキングでは「EXIT」「真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ」とタイ37位で、まあ順位は相対的なものだからともかくとして、問題は投票数が25ということだ。ちなみに有効投票総数は約4800票。

 どうなんだろう。さっき「嫌いな曲リストに入っていない」と書いたけど、逆に言うと「好きな10曲」とかそういうのにもあまり入っていない気がする。ねとらぼの調査に投票した人間が筋金入りのファンかそれとも代表曲は知っているくらいの人なのかも気になるけどそれは調べようがない。ただ思い出補正もあるけど*3、かなり好きな曲のひとつなので、少なくともこの票数は不服ではある。

 理由を考えてみた。たぶん競合曲の多さのせいだ。音楽的なことはなにも分からないけどwikipedia*4によるとラテン曲に分類されるらしくて、となると「サウダージ」や「アゲハ蝶」「ジョバイロ」「オー! リバル」「LiAR」など鎬を削らなければならず、ノンタイアップの上収録アルバムがベスト盤のみということもあって相対的に「嫌いではないけど地味で目立たない曲」という評価に落ち着いたんじゃないかと思っている。

 

 というわけでいいところを上記の楽曲とある程度比較しながら語ってみたい。

 まずタイトル。ポルノグラフィティ史上一二を争うレベルの美しい。珍しく直截な言葉がタイトルに選ばれていて、英語表記とはいえ「愛」はともかく「死」なんてタイトルどころか歌詞中にすらほとんど使われていない*5。英語の素養がないので「,」の意味とか直訳ではないスラング的な意味があるのかどうかはわからないけれど、比較的明快なタイトルを付ける傾向にあるポルノグラフィティの楽曲の中でもやや凝ったタイトルだろう。

 もちろん歌詞もタイトルに負けないくらい美しい。手拍子の音に惹起される舞踏のリズムに合わせて「離別したと思われる者の幸せを祈りながらも妙に未練たらしくてそもそも交際していたのか片思いだったのか相手は生きているのかどんなシチュエーションだったのかすらよくわらかない」という晴一の真骨頂といえる作詞が繰り広げられる。上記楽曲内ならどちらかというと「ジョバイロ」が近いけど、比較するとど「Love,too Death,too」のほうが大きな人生の流れを歌っているようにも思える。おれはこういう歌詞をすぐに「死別」と解釈する病気に罹っているけど、そう考えなくても解釈の余地は広く、永遠に味の消えないガムのように噛み続けられる。

 人生(愛)の終焉(死)というスケールの大きさに比べ、ちりばめられた言葉のは〈鳥〉〈星〉〈花〉〈砂〉と日常的なものばかりだ。そして「ジョバイロ」に比べて暗喩的な表現は少なく、〈色とりどり〉や〈指の間を落ちていく〉とリアルに感じ取れる表現が多い。そういう地に足の着いた描写は良い意味で大きなスケールを感じさせず、高い視点に圧迫されずに音楽を楽しめるようにしてくれる。

 ちょっと強引だけどもう一つ注目したいのが「絵を描く」という行為。例えば「パレット」〈パレットの上の青色〉→「Love,too Death,too」〈自分のキャンバスに〉→「ゆきのいろ」〈暗い部屋の壁に掛かる一枚の絵〉と時を置いて「絵を描く」描写が登場する楽曲が作られている。三曲とも全然違う曲調だけど、どこか大きな人生の流れについて唄っているようなに思える。だとすると晴一にとっての「絵を描くこと」は「一個人の生涯」を仮託するのに適した題材ということになる。そういう意味でも興味深い曲だ。

 

Love,too Death,too」は、同じラテン調の曲でありながら上記の名曲たちとはまた別の色味で違う種類の味がする曲に仕上がっている。

 これは上記楽曲より優れている/劣っているという話ではなく、それぞれに違った良さがあって、もちろんこの「Love,too Death,too」だってそれは同じで、違った特色の上質な言葉が詰まっている。だからこの「Love,too Death,too」もう少しだけ注目してくれてもいいんじゃないかな。

 

 

 完全に余談になるけど個人的にはMVがとてもいい。最初の間奏で仁王立ちして筋肉を見せつけてくるスキンヘッドの巨漢マッチョメンと晴一の後ろから飛び出してくる口を開けたお姉さんが好き。16thツアー「UNFADED」での「幸せについて本気出して考えてみた」のときにバックで流れていた豪華絢爛な如来像(?)の幾何学模様もそうだったけど、ポルノグラフィティにとって(もしくは映像関係のスタッフの方にとって)の「楽しさや幸福」ってああいうイメージなのかもしれない。

 

「恒常公開ショート版」


www.youtube.com

「期間限定公開フル版」


www.youtube.com

*1:以下敬称略

*2:過去曲のほうが相対的に有利な点を鑑みてもそこそこ閲覧されている方だと思う

*3:初めて自分で買ったシングルだった。トランプはまだ未開封でとってある。

*4:「ソースはwikipediaかよ……」と思われるかもしれないけど楽曲のジャンルは他に調べる術を知らないのです。音楽の素養がないから自分で聴いてもいまいちよくわからないし……。

*5:ぱっと思いつく範囲で「Zombies are standing out」くらい

最近見た映画(2021年11月)

閃光のハサウェイ(2021年、日本、監督:村瀬修功、95分)

 正直、見るのを躊躇していた。出来が心配だったわけじゃなくて原作を読んでいて結末を知っていたから。三部作の一作目ということもあって結末はそれなりに明るいものだったけど……。

 出来自体は作画、演出、役者と三拍子そろって素晴らしかった。前半に穏やかな色彩の都市部や地上に生きる人々を描写がすごく良くて、同時に辛かった。とくにタクシー運転手の台詞は印象的で原作小説を読み返してて、あれが原作にあった台詞と知ってびっくりした*1。戦闘シーンで言えば、やっぱりガウマンとレーンの空中戦は見ごたえがある。速すぎず、遅すぎない、殺陣や撃ち合いの経過がわかりやすい。街の被害描写を含めて意図的に怪獣映画っぽく作ってるのかな*2。ただハサウェイの初戦闘シーンが夜間と言うことを忠実に反映して画面が暗すぎたのがちょっと残念。

 まだ原作通りの結末にするかはわからなくて、二作目は特に原作からの変更点が多いらしい。正直それでも続きはあまり観たくない……けど観るんだろうなあ。

《印象的なシーン》後退しつつミサイルをバルカンで迎撃するレーン。

 

 

SF巨大生物の島(1961年、アメリカ、監督:サイ・エンドフィールド、100分)

 映画史とか映画の技術の発展史に詳しくないから断言はできないけど、この時代にこのレベルの映画を作れるのは相当すごいのでは? 

 タイトルにもなっている巨大生物とのアクションシーンが複数あるけど、巨大蜂が一番好き。他の生物よりハラハラさせられたし、作り物の巨大蜂も細部が凝っていて迫力があり、特に羽の動きが妙にリアルでとても気持ちが悪い。序盤で漂着者が二名増えるわけだけど、都合よく女が二人生き残って船員が死ぬのは、都合がいいというかなんというか……。

 こういう表現が正しいかはわからないけど、全体的にRPGみたいだった*3。とてもオーソドックスだけど、最後までちゃんと観客を楽しませようとする工夫があって、こういうのを古き良き映画というのかな、なんて思った。

《印象的なシーン》巨大蜂が巣の中にハーバートとエレナを閉じ込めるシーン。

 

SF 巨大生物の島 (字幕版)

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カフカ「変身」(2020年、イギリス、監督:クリス・スワントン、85分)

 哀しい。原作は高校の時に流し読みしただけで、そのころは「変な話だなあ」くらいしか感じなかったけど、大人になって改めてストーリーを追うと哀しくて仕方ない。

フィルマークス」には家族を責めるコメント(「外見が変わっただけで中身は同じなのにあんな対応は酷い」とか「妹は親すら締め出す嫌な奴」とか)があったけれど、ちょっと不当だと思う。グレゴールの変化で深刻なのは単純な外見ではなく行動の変容と相互理解不能なことだ。たしかにグレゴールの行動に一切悪意はないけれど、あまりに異質な行動とグレゴール自身が行動の弁明をできない状況は周囲に強い負荷をかける。それに家族も最初はそれなりに親身に接しているし、とっさに出た妹の「化物!」というセリフだって状況を考えればとっさにそんな悪態をついてしまいたくなる気持ちだってわかる。だからグレゴールが一方的に悪くて、家族は全然悪くないという単純なものではなく、もっと切実で辛くやるせない物語だったはずだ。

 だからこそグレゴールの死後の家族の反応と手伝い女の空気の読めなさ*4が際立ち、すべてから解放されたラストの明るさ*5と呆気ない幕切れが物悲しい。生理的に嫌悪させるような巨大な毒虫のデザイン*6は秀逸だと思うけどCGの質感的に非現実感が強すぎて浮いてしまっているのは否めない。ただ、原作に色濃かった「グレゴリーに起きた不条理」という側面がやや薄いような気もする。

 映画本編とは関係ないけど、もしかしたら『賢者の石』のころのダーズリー一家にとってのハリーってこういう存在だったのか、とも思った。ハリーにもグレゴールにも悪意がないところを含めて。

《印象的なシーン》グレゴールの最期。

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ヘンゼル&グレーテル(2013年、アメリカ、監督:トミー・ウィルコラ、88分)

 荒川弘百姓貴族』で存在を知っていて、アマゾンプライムで発見したので鑑賞。そんなに込み入った筋はないけどアクションはレベルが高いし爽快感もあり、程よい長さで終わる。ハクスラゲームみたいなもので深く考察したり何かを学び取ったりすることはないけど、そういう映画とわかればけっこう楽しく観れる。

 殴ったり蹴ったりしてもなかなか死なないなあと思ったらパンチ一発で簡単に粉々になったり引きちぎられたりと、この世界の生物は硬いのか柔らかいのかよくわからない。主人公二人の体質を特殊にしたことで魔女の使う魔法が「物を持ち上げてぶつける」という物理攻撃にシフトさせたのは工夫があって面白い。

 本国の批評家からは大不評みたいだけど、良くも悪くもそこまで酷評するようなものでもないと思う。ただ、ベンはもうちょっとちゃんと悲しめよ。なにへらへらしながらついてきてんだ。

《印象的なシーン》序盤の街の外れに住んでる魔女との戦闘で箒を打ち落とす場面。

 

 

一分間タイムマシン(2015年、アメリカ・イギリス、監督:Devon Avery、6分)

 シンプルイズベスト。よくできたコントのように爽快で、単純で、クスリと笑える。ブラックだけどちゃんとユーモアもある。それにしてもこの俳優の人、死体の演技が上手いなあ……。

《印象的なシーン》「レジーナ2号、これに感謝しなさいよ!」

 

とっくんでカンペキ(2012年、アメリカ、監督:Devon Avery、3分)

 3分! 終始台詞がないこと、そしてその三分という短さもあってMVのようだった。ただひたすら可愛らしく温かい気持ちになれる。

《印象的なシーン》ラストシーン。

 

*1:ちょっと富野由悠季っぽくないセリフだと思ったから

*2:ペーネロペーΞガンダムは「怪獣っぽく」というオーダーの元デザインされた

*3:複数人で漂着し協力してサバイバル。この時点でいくつかの伏線を張り、いくらかの敵と戦い、追加の漂着者が現れる。新しい住処を発見し、目標に向けて邁進していたところに外部からのトラブル。あわや全滅の危機と思わせて序盤の伏線を回収しキャラクターが増え、最終的な目標が提示される。あとは時間制限を設けギリギリの作業で焦らし、犠牲を出しつつも成功。物語は幕を閉じる。

*4:家族たちと違いグレゴールを揶揄ったり妙に明るく接してくれているが、これは彼女が家族たちと違い身近に接する必要がないゆえの明るさだ。毎日一時間かそこら接するのと常に自分の居住空間に居るのとでは訳が違う

*5:現代に生きる我々が介護や鬱病の問題と重ねてみるのは当然だけど、原作を書いた当時のカフカがそんなことを意識して書いたかは疑問がある。なにせカフカは『変身』が暗く見えることに不満を抱いていたのだから

*6:原文は「Die Verwandlung」で直訳すると「有害生物」が近いらしい。それが反映されているのか中盤くらいから産毛のようなものが生えてより獣っぽくなっている

岩明均の描く女性と「自分ではない者を良く描く」ということ

 ……と大上段なタイトルにしたけどそんなにたいしたことではなくて、岩明均先生*1の漫画に出てくる女性のキャラクターって「他人の異変や心情の変化を敏感に察知する能力」が高いことがあって、それって一種のバランス感覚なのかも、というだけの話。「だから?」というレベルの記事で、そこからなにか高尚な話ができるわけではなく特に深読みもしていない。けど、これって創作の基本なのかもしれない。

 

 

 岩明均の初連載作品『風子のいる店』は少女を主人公にしているけど、他の連載作の多くは青年くらいの男性を主人公にしている*2。だから、という理由もあるのかもしれないけど岩明均の描く女性は察しが良い人物が多い。

 

 まずは『寄生獣』を見てみよう。

 ヒロインの村野は心臓を貫かれるという大きな変化以前の「右手にミギーが寄生した」というささやかな変化にすら違和感を覚えて右手を凝視している。村野の気づきはとても重要な要素の一つで、序盤、中盤、終盤と要所で「君は泉新一君なの?」と新一に問いかけている。これは大きな変化に対して「そんなものだろう」としか思わなかった同級生の男子生徒たちのリアクションと対照的で、ちょっと気取った言い方をするなら「あなたは本当に人間側なの?」と問いかけているようですらある。そしてこの問いかけは最終話で大きな意味を持つ。

 新一の母親である信子はかなり早い段階から新一の変化を察知し気をかけている。伊豆旅行に行く寸前には「何かがちがう」「自分の子供じゃ…」と(ややヒステリックな反応だったことを鑑みても)かなり的を射たことを言っている。父親である一之のリアクションと好対照だ。そして、そんな繊細な感性を持っているからこそ、伊豆からの帰宅が効果的になり、帰宅が効果的だからこそ……というのは長くなるから別の記事で。

 主人公回り以外では田宮良子の母親もごく短時間で娘に化けた寄生生物の正体を見抜いている*3

 

 次作の『七夕の国』にはあまりそのような傾向はない。『ヘウレーカ』『雪の峠・剣の舞』も同じだ。

 

 というわけで次は最新作『ヒストリエ』だ。最も印象的なのは青年期を過ごすボアの村のサテュラだ。エウメネスがボアの村を出ていくきっかけになった謀略の最後の仕上げ……行動の内容とその意味……を無言の視線だけで察知している。でなければあの場面で「だめだよ」というセリフは出てこない。

 時間がやや前後するけど幼少期の恋人ペリアラも察しの良い女性の一人だ。彼女はエウメネスが船に乗る寸前に友人らと見送りに来るわけだけど、カロン伝手にエウメネスお手製のペンダントを付けて来ている。これは暗に「まだエウメネスに好意を抱いている」と示していて、二度と会えなくなるかもしれない旅立ちの前になにか一言特別な言葉が欲しかった。けれどエウメネスはそれがわかっていたからこそ、未練が残ったりしないよう特別なことは言わず船に乗ってしまう。その意図をペリアラは正確に受け取っている。

 もちろん、これは推察でしかないけどそう解釈すると以下のことに説明がつく。見送りにわざわざペンダントを付けてきて、そして単にショックを受けただけなら投げ捨てればよかったものを、思いとどまりそのまま走り去っったこと。そしてエウメネスのなにかを飲み込むような苦悶の表情。周囲の男友達の楽天的な反応とは一線を画している。

 マケドニアに仕官してから出てくる女性キャラクターは主にエウリュディケとオリュンピアスの二人だけど、オリュンピアスはそういうレベルの問題じゃないからとりあえず置いておくとして、問題はエウリュディケだ。彼女にはいまのところそんな描写はないけれど今後もっと事態が切迫してくればそういう場面がでてくるんじゃないかなと思っている。エウメネスの女性を見る目とある意味での女運のなさを強調する意味も込めて……。

 

 

 ここまでが確かに存在する描写で、ここから先はたんなる憶測。

 

 

 長々と書いてきたけど、これは岩明均が「女性に特別な能力を感じとっている」とか「男を鈍感と思っている」とかそういうことではないと思う。彼女らが察しが良いのは「母親だから*4」とか「恋人だから」とか「〇〇人」だからとかそういうことではない。

 これはバランス感覚だ。

 小説でも漫画でもアニメでもドラマでも映画でもゲームでも何でもいいけど、何か物語的なものを作った人ならわかってもらえると思うけど、正義とか良識とか明敏とか、そのほか諸々の美点をどういうキャラクターに付与するかはけっこう難しかったりする。

 自分と同じ属性を持ちすぎたキャラクターに特殊な能力や美点を付与しすぎると、まるで自分自身が物語の中で大活躍しているようで居心地が悪くなる。もっと直截に言うと自作品なのにメアリー・スーを登場させているようで気持ちが悪い。貫き通せばそれも娯楽になるかもしれないけどなかなか難しい。だから岩明均は自分とは違う属性である「女性」にそういう「心情の機微を察する能力」を付与しているのだと思う。特に『ヒストリエ』のような歴史ものはどうしても「男性」の物語になりがちなのだから。

 

 もちろん岩明均がそう明言したわけではない。完全に憶測の域を出ない。ただ、こういう傾向は他の作家にもある。少年の純真さや強さを強調する作家、若い女性をやや万能気味に持ち上げる作家、青年期の男の活力や知的な能力を過大評価する作家、老人に人生経験の豊かさや強靭な精神力を付与する作家もいる。自分の観測範囲では中年の男を賛美する人は見たことがないけど、ただ知らないだけでそういう作家だっているはずだ。

 きちんと調べたわけじゃないけど、その多くは年齢や性別などが作者と一致しないように作っているだろう。もちろん、他人に物語を作って見せようなんて思う段階である程度の年齢になっていることが多いから、よって少年少女は自動的に自分と違う属性になるわけだけど……。

 こういう工夫は物語を俯瞰で見つづけるのにとても役立ってくれる。そういう意味で「自分ではない者を良く描く」ことは創作の王道の一つだと思う。

 

 

 ……じゃあ逆に多くの作家たちが悪意とか非常識とか馬鹿とかそういう諸々の欠点をどういう属性のキャラクターに付与しているかというと……まあ、なんというか……なんともいえないけれど。

 

 

 

 

*1:以下敬称略

*2:2021年現在で女性の主人公は読み切り作品以外では原作を担当した『レイリ』と短期連載作「剣の舞」くらい。

*3:ここは映画版で強調されており、同行していた父親はまったくわかっていなかった。

*4:一応断っておくけど『寄生獣』での田宮良子の変化や胸の穴のくだりにおける母性(人間性)の欠落と獲得の対比は別の問題だ。

King Gnu、Official髭男dism、ハルカトミユキ[ブロガー経由で聴き始めたアーティスト]

 思い返せばこれまでの人生で人から薦められた音楽をあまり聴いてこなかった。しかも歳を取るにつれて新しいものに手を出すのが億劫になっている。これはよくない。精神的老化だ。音楽に詳しくなる必要はないけれど、ある程度広く聴いていたほうがいいに決まっている。ということでとりあえず見に行っているブロガーの勧めていたアーティストの曲をいくらか聴いてみた*1

 

 

King Gnu

 かんそうさん(kansou)の記事から興味を持った。記事を読んだ当時は「ああ、アニメ版の『BANANA FISH』とタイアップしてたなあ」くらいの認識で、ここまで絶賛するのなら、と「CEREMONY」を聴いてみた。

 凄い。

 ギターとベースの区別がつかないレベルの音楽低偏差値感性を貫通して脳を揺さぶってきた。初めてハーラン・エリスンの小説を読んだときの感覚*2に似ている。具体的にどどんなテクニックが使われているのか、どんな楽器を使っているのか、なぜこうも聴きいってしまうのか、まったく分からない。けれどリピートして聴いてしまう。アルバムを通して何度も聴いてしまう。強烈な魅力。

 お気に入りは「ロウラヴ」「あなたは蜃気楼」「傘」。特に「ロウラブ」の〈壊してしまいたい“発作”〉―〈傷つけ合う“脳波”〉がすごく良くて、韻のことも全然わからないけど、ここで〈脳波〉が出てくるのは本当に好き。それと「小さな惑星」の温かさと寒さの描写、そして前向きな諦めというべきなのか〈まあそれも別にいいかと/くしゃみをして笑い合うのさ〉という表現が素晴らしい。純粋に歌詞だけで言えばいまのところ一番好きな歌だ。

 

 

Official髭男dism

 こちらもかんそうさん。あれだけ大ヒットしたのに「Pretender」のサビだけは知っているという無知さ加減だった。やっぱり同曲が収録されている「Traveler」から聴いてみた。

 あっ、世間の評価って正しいんだと思った。アベレージヒッターというのか、全編が何かの形で刺さる。楽しい気持ちになれる曲からどこか後ろ向きで暗い歌、そして強い皮肉の歌詞までふり幅も広い。もちろん音楽的な技巧なんて少しも分からないけど……。

 お気に入りは「155万キロのフィルム」「愛なんだが…」「Stand By You」。「Stand By You」の〈涙のターミナル Uh Uh 並んで立っている〉はなぜなのか自分でもよく分からないけどずっと頭に残っている。歌詞に関連して誤解を恐れずに言うと「異端なスター」は好きだけど嫌いだけど好き。この辺はちょっと長くなるから別記事にしようと思っている。

 あと、これは直接は関係ないけどメインで作詞作曲をしている藤原聡さん以外の三人も作詞作曲で参加しているみたいだけど、これって珍しいんだよね? ファンの人たちからの評価がどうなのかは知らないけれど、もしメンバー全員が作詞も作曲もやり続けるのなら、多様性という意味では完全究極体になるんじゃないかな。

 

 

ハルカトミユキ

 サトシさん(飴玉の街)から。当時なんとなく女性アーティストの曲が聴きたくて色々調べてたら紹介している記事を見つけて、とりあえずということでベスト盤を手に取った。

 あれ、と思った。いや、クオリティが低いとかじゃ断じてなくて、いつもおれが好きになるタイプのアーティストじゃないのに良いなと思えたからだ。最初は気に入った数曲だけリピートして聴いてたけど、気が付いたら二枚組を全部通して何度も聴いている。いままでなかったパターンでちょっと困惑している。

 お気に入りは「17歳」「夜明けの月」「二十歳の僕らは澄みきっていた」。ちなみに「Hate You」は初聴きでびっくりして思わずシークバーを動かして聴きなおした。「どうせ価値無き命なら」の〈明日には枯れる花も/可能性と名付けよう〉が気に入っている。こういうところが好きな理由なのかもしれない。

 こういう表現が適切なのかわからないけど、瑞々しい十代のころに戻れたような気持ちになれる。もちろん、歌詞の棘を含めて。時系列的に無理だけどいまの腐り切った魯鈍な人格じゃない、もっと柔軟で優しかった十代のころに聴いておきたかった。三アーティストのなかでは一番歌詞を読みながら聴きたいという気持ちが強い。

BEST (通常盤) (特典なし)

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 いつも以上に浅い感想になってしまったけど、最近聴き始めたということでご容赦を。

 二人のブログを見てもらえればわかるけど、どちらも熱烈なポルノグラフィティのファンだ。ブログもポルノグラフィティ関連の記事を漁りまくって、ついでにくらいの気持ちで別のアーティストの記事も読んで、今回の事に繋がった。そういう意味では広く音楽を聴いて感想だったり考察だったりプレイリストだったりを作っている人は、それがどんなに小規模な片隅の世界であっても、音楽業界に寄与してるんじゃないかな。誰かが紹介してないと自分からは聴き始めないおれみたいな人間もいることだし……。

*1:ちなみに2020年の初頭くらいの日記をもとに書いているので本当にごく最近というわけではない

*2:短編「世界の中心で愛を叫んだけもの」はマジで全く何をやっているのか/言っているのか、さっぱり全然少しも理解できなかったのに「すごい」と思えるなにかがあった。内容自体は正直いまもよくわからない。「死の鳥」とか「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」のほうが好き