電羊倉庫

嘘をつく練習と雑文・感想など。ウェブサイト(https://electricsheepsf.web.fc2.com/index.htm)※「創作」タグの記事は全てフィクションです。

最近見た存在しない映画(2024年6月)

ミーアンの冒険(1986年、日本、監督:末弥秀子、79分)

 シンプルにまとまったファンタジー作品。窮屈な家から飛び出したお姫様が世間知らずに起因する見通しの甘さで四苦八苦しながらも謎の少年ウィスプと出会うことで徐々に事態が好転していき、やがて彼の大きな秘密を知ることで、彼女自身も大きく変化することになる。

 王道な世界観で複雑な魔術や社会制度の設定も登場せず、基本的なストーリーもボーイミーツガールなこともあり難解なところはない。物語の簡潔さやハッピーエンドであることを含めて少年少女向けの作品だけど、大人が楽しめないわけでもない。序盤は穏当な児童文学的世界観だったものが終盤ではサスペンスじみた不穏な空気が漂い、やや急転直下にも感じられるけど、不整合があるわけでもなく後味もかなり爽やか。そういう意味ではどこかアンバランスだけど、そこを含めてハラハラさせられる作品。

 やや淡い色合いの世界観が印象深い。良くも悪くも地に足の着いた地味な展開が続くだけに衣服や家具の意匠の細かさがファンタジーとしての体面を保つ役割と持っているのだと思う。

《印象的なシーン》老婆のような自分の手を見つめるミーアン。

 

 

ホイッスラー(1999年、アメリカ、監督:エルダー・C・ヒサー、97分)

 気軽なコメディ映画。会話とシチュエーションで笑わせてくれる。あまりにも古典的な未来像はいまみても荒唐無稽で、しかもそのSF要素が展開にほとんど寄与していないのも潔い。ホイッスラーのなんともいえない腹の立つ笑顔と終始困り顔のフェルスンが対比的なのも良い。それにしても歯の白さがすごい。嘘っぽい本物というか本物っぽい嘘というか。

 個人的には全編にわたって細かい笑いどころを提供してくれたガウ夫人が一番気に入っている。いい味出しているよなあ。なんというか、ホイッスラーが胡散臭すぎる表情と饒舌な割にカタコトな台詞で笑わせてくれるのだとしたら、ガウ夫人は一貫してごく真剣な顔で一言も発せずに身体表現だけで笑わせてくれる。ある意味対照的な存在だけど、ある意味では見捨てられる展開なのは共通しているところも可笑しい。

 ちなみに終盤の重要な局面の舞台が日本なんだけど、この手の映画にしてはトンチキニッポンではなくてかなり地に足の着いた日本像なのはなんだか意外だった。というか舞台のコネチカット州のほうがトンチキSF近未来アメリカなのに、日本の描写は妙に考証がちゃんとしていて、設定年代である1985年ぐらい日本が忠実に再現されているらしい。どういうことなの……。

《印象的なシーン》「ラブメイカー? 冗談じゃない!」

 

 

キャニオン・アイオン(2004年、アメリカ、監督:アンジェラ・パグリッシ、109分)

 高速で物事を処理する人的なネットワークの描写はかなりフィクション係数が高いけれど、物語の筋自体は血の脚の着いたものでそれほど奇を衒ったものではない。感想サイト等で異常に怒っている人も多かったけどそこまで言うほど悪い筋ではないはず。まあ、宣伝の仕方が悪くて勘違いした人も多かったみたいだから、それは確かに問題だけど……。自然豊かな峡谷の描写は圧巻で、特に水流と晴天は同じ青色で表現されているけど、場面が変わるごとに微妙に違う色合いで表現されていて素晴らしかった。視界はやや閉鎖的なはずなのにどこか開放感があるのは色合いの表現に依るところが大きいと思う。

 物語全体としては閉鎖的な村落に迷い込んだ旅人が異常な経験をする……という『ミッドサマー』や『トリック』に代表されるある種のクローズドサークルもの。舞台のノーナックは因習村というほど奇妙な村落ではないけれど、なんともいえない居心地の悪さと細かな認識のずれがとても気持ちが悪く、よってワクワクさせられる。もう半歩進めていればたぶん純度の高いホラーに仕上がっていたような気もする。

 ちなみに序盤にルークがメラニーに話して聞かせていた物語はちゃんと全文が作られているらしく公式ウェブサイトで閲覧することができる。かなり典型的な冒険小説のワンシーンのようだけど、全文を読んでみると本編の展開の補助線となるような描写(ヤギの足跡/落下する岩の音/喉の渇き等)がふんだんに盛り込まれていて必見の完成度を誇っている。映画を観終わったらぜひご一読ください。

《印象的なシーン》ずっと綺麗なままのリュックサック。

 

 

教義ドクトリン教条ドグマ(2028年、イギリス、監督:ハチントン・ジャノビッツ、114分)

 成功した人間が滔々と語る方法論は聴くに値しない、と聞いたことがある。それはしょせん生存者バイアスに過ぎないし、それに人間は一度成功すると失敗するまで同じ方法をやり続ける傾向にあり、成功者はたまたまそれで失敗せずやりかたを変えずに済んだに過ぎないからだ。

 これはまさにこの映画の主題である教義ドクトリン教条ドグマの違いに当てはまる。教義ドクトリンはまさに事例や純粋理論から導き出される原理原則や基本的なものの考え方で集団で人を動かす事業において極めて重要なものではあるものの、それはもちろん時と場合によって考え方を変える必要があるものであり、当然ながら時間の経過によって教義ドクトリンは普遍性を失うこともあり得る。しかし人間は往々にしてすでに成功を収めてきた考え方にこだわり、それに固執する傾向がある。特に直接的に生命の危機をもたらしえる事業や長期的な行動を抑揚するようなタイプの事業においてある種の保守性とっして発揮されることが多い。現実を無視し、既存であるからという理由だけで採用するようになって教義ドクトリン教条ドグマへと変貌する。もちろん、適当に書き並べた言葉の羅列なのだから信頼するには当たらない。本気にしないでね。それを重々承知の人間だけがここには存在するのは、言われるまでもなく先刻承知のことではあるが、人間は一度教条主義ドグマティズムに陥るとそこから抜け出すのは至難の業となることが多い。

 人生だってそういうものだ。人間は一度手にした成功を永遠不変のものと勘違いしがちだ。しかし、人間の生き方はまさに多種多様であり、しかも教義ドクトリンに必要不可欠な制限というものが極めて少ない。いや、少ないというのはちょっと違う。生命や行動のスパンが集団に比べて短いだけに制限というものが高速で変わり続けるのだから、単なるヒトが十年や二十年程度で得た経験則というものは語った時点で前提条件となる制約が変化していることが多い。だからもっと抽象的で普遍的なものを演繹する必要があるのだけど、それをできるのはごく限ら才能をもった人間にしかできない。人生訓や成功の方法論を語りたいと望む人間にその才能が備わっている確率は極めて低いといわざるをえないのだ。

《印象的なシーン》「はあ? 何の話?」

 

 

さいご(2051年、日本、監督:真崎有智夫、8分)

 やや役者の演技が類型的すぎるけれど悪くない物語だけど、尺が短い割に時系列が現在―過去―現在―大過去と何度も行ったり来たりするのはちょっと構成のバランスが悪いと思う。最後の一言はかなり好き。

《印象的なシーン》ささやかな春風。

デッサン#2 春光

デッサン#2 春光