電羊倉庫

嘘をつく練習と雑文・感想など。ウェブサイト(https://electricsheepsf.web.fc2.com/index.htm)※「創作」タグの記事は全てフィクションです。

フィリップ・K・ディック『アジャストメント』[生涯のテーマからさらっと笑えるコメディまで]

「アジャストメント」(Adjustment Team)翻訳:浅倉久志

 現実崩壊と上位存在。解説にもある通りいかにもディックらしい作品。世界の変化に気が付く場面(P35-39)の焦燥感は流石。ただ、その直後の電話ボックス直送のシーンはちょっと笑ってしまった。しがない勤め人がふとした瞬間に世界の本当の姿に気づき、ある種の重要人物となるのは願望充足*1でもあると思う。召喚係の老犬らしさがなんだか微笑ましい。

 

「ルーグ」(Roog)翻訳:大森望

 ショートショートに近い文章量の作品。初読のときも印象に残っていなくて、改めて読んでもSFと思わせた非SFのオチかなとしかおもえなくて、一応、感想を漁ってみたらそれは違うと指摘しているのを見つけて読み直した。たしかに卵の殻を食べるのはおかしいですね……ただ、鳴き声とその対象の名称が同じなせいでちょっとわかりにくくなっているとは思う。

 

「ウーブ身重く横たわる」(Beyond Lies the Wub)翻訳:大森望

 旧題の「輪廻の豚」も名は体をあらわしていて良いと思うけど、こちらのほうが印象的。不気味といえば不気味だけど、どこか勧善懲悪(?)っぽいしある意味ではハッピーエンドだから個人的には気楽に読める。

 

「にせもの」(Impostor)翻訳:大森望

 偽物。これも典型的なディック作品で「突然降りかかる嫌疑」と「アイデンティティの否定」が分かりやすい形で描かれている。描写としては難を逃れての帰宅直後の描写(P113)が好き。テンポが良い。オチも古典的だけど秀逸。ただ、そんな威力があるならそんなに回りくどいことしないで突入できた時点で爆発したほうがいいと思う。

 

「くずれてしまえ」(Pay for the Printer)翻訳:浅倉久志

 模造。邦題はかなり意訳だけど、オチまで読むと意味深というか悪い意味では使われていないような気がする。ドーズのセリフっぽいというか。もうどうしようもない状況で遅かれ早かれ破綻してしまうという閉塞感が強いけど、どこか前向きに感じるのは(やや安直だけど)ラストシーンに希望があるからなのだろう。原題は支払われていないということなのか、それともラストの暴力(P158)のことを皮肉に表現しているのか。

 

「消耗員」(Expendable)翻訳:浅倉久志

 上位存在(?)。文章量的にはショートショートに近い。オチで乾いた笑いが零れる。

 

「おお! ブローベルとなりて」(Oh, to Be a Blobel)翻訳:浅倉久志

 ある種の傷痍軍人を題材にアイデンティティの問題も描いている。状況はそれなりにシリアスなはずなのにどこかコメディ味を強く感じるのは、たぶんジョーンズ博士のせいだ。特に自分でレバーを引くシーン(P193)はシュールで面白い。オチは逆「賢者の贈り物」というべきか。

 

「ぶざまなオルフェウス」(Orpheus with Clay Feet)翻訳:浅倉久志

 気楽なコメディ作品。こういう楽屋落ち系はけっこう好き。オチもこのタイプの話にしてはちょっと変わっている。発表当時は筆名を変えていたのも良い。ただ、そっちは失敗したら大変な目に合うというか、生きて帰れないような気がする。いや、それも時期によるか。ヒトラーに対して成功した世界が(別作者だけど)『鉄の夢』だったり、なんて考えると楽しい。

 

「父祖の信仰」(Faith of Our Fathers)翻訳:浅倉久志

 現実崩壊と上位存在。傑作。むかし読んだときは「正体」が明かされるシーンがイマイチよくわからなかったけど、いまはあのシーンがすごく好き。なるほど、あれは、そういう存在になるのか。ちょっと違うけど士郎正宗攻殻機動隊』での人形遣いとの対話のラスト(P275)を思い出す。薬物、別の歴史、テレビの向こう側の偽物、聖痕、と短編ながらディック的な要素がふんだんに盛り込まれている。ちなみに奥原鬼猛という日本人が出てくるけど、漢字はどうやって当てたんだろう。原文に漢字が使われていたってことはないだろうしなあ。

 

「電気蟻」(The Electric Ant)翻訳:浅倉久志

 現実崩壊と人造物。すごく好きな短編。正体が判明してからの自傷行為とそれに伴う「目の前にある現実の崩壊」はドラッグを連想させる。タイトル的にも前年に発表された『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の変奏曲という感じかな。人造物が必ずしも「アンドロイド」ではないという意味で。最後の一文が妙に印象的。なんというか良い意味でディックっぽくないというか。ただ、そのテープへの加工そので変化が起きるのはちょっと変じゃないかな。あと、エリスン「俺には口がない それでも俺は叫ぶ」もそうだけど傑作SFに紙テープが出てくるとちょっと混乱する。

 

「凍った旅」(Frozen Journey)翻訳:浅倉久志

 現実崩壊。ほぼ最晩年の先品らしくかなりまとまった短編。文体はすっきり洗練されていて展開もテンポよく進み、船の独り言にはユーモアがあるけれどディックらしい沼に沈むような抑鬱もある。些細な気づきから現実が崩壊する描写、それに記憶がフラッシュバックしてひたすらネガっていく過不足ない描写は素晴らしい。ラストは、それさえも……と思ったけどそういうことではないらしい。たしかに視点が変わっているのだからそういうことか。

 

「さよなら、ヴィンセント」(Goodbye,Vincent)翻訳:大森望

 解説にもある通り「パーキー・パットの日々」を連想する小説。SF色は薄い(パラレルワールドといえなくはない程度)けれどフィクション係数が高くて、なんとなく気に入っている。存在しない人形の物語。

 

「人間とアンドロイドと機械」(Man,Android,and Machine)翻訳:浅倉久志

 この作品だけは小説ではなくスピーチの原稿。序盤は好き、中盤はうーん、終盤は何言っているのかよくわからない……と綺麗にグラデーションに感想が変わっていった。P408の人間性の説明は、理科学的にも文科学的にもたぶん間違っているだろうけど、ディックの良い面がでていて、とても好きな説明だ。「ヒトについて」から「宇宙の構造/世界の仕組み/神」へとシフトチェンジしていく……と思う。どこかで『ヴァリス』っぽい描写があったような気がするけど見つけられない。気のせいだったのかも。正直後半は流し読みしてしまったけど、ディックの特に晩年の思想を理解するうえでとても重要な文章ではあると思う。

 

 

――――――――

 ディックの生涯のテーマはいくつかあって「現実崩壊」「人造物とヒト」「上位存在による支配/操作」「模造品」「偽物とアイデンティティの否定」とパッと思いつく範囲でこれだけある。この本に収録されている短編、中でも「父祖の信仰」「電気蟻」「凍った旅」がテーマ性も完成度も高い。個別感想でも書いたけど、特に「父祖の信仰」は盛り合わせセットのようで味が濃ゆい。ほかにも比較的軽く読めるコメディ作品もあり、ディック初心者にも……と思ったけど「人間とアンドロイドと機械」が鬼門になるかな。

 ただ、ここでも書いたけど、やっぱり欠点もある。「アジャストメント」なんかがそうだけど、スッと終わりすぎるというか「あっ、終わりか」と肩透かしを食らうことがある。あと、この短編集の作品はそうでもないけど、願望充足が強すぎる(平凡な勤め人が突然世界の重要人物になる、というセカイ系の親戚みたいな展開や口うるさい妻を捨てて若い女に乗り換える)とか「にせもの」みたいにSF的な小道具がちょっと陳腐すぎたりとか。けど、やっぱり欠点があっても良い作家だし、ずっと好きなんだろうなあと思えるくらいの魅力がある。

 ベストはやっぱり「父祖の信仰」かな。「電気蟻」「凍った旅」も捨てがたいけど、ディック要素欲張りセットでありながら単純に小説としても十分に面白いのは、もうほとんど奇跡だと思う。

 

 

※作品の発表時期や邦題などは「site KIPPLE」を、一部感想などは「Silverboy Club」参考にした。

収録作一覧

「アジャストメント」
「ルーグ」
「ウーブ身重く横たわる」
「にせもの」
「くずれてしまえ」
「消耗員」
「おお! ブローベルとなりて」
「ぶざまなオルフェウス
「父祖の信仰」
「電気蟻」
「凍った旅」
「さよなら、ヴィンセント」
「人間とアンドロイドと機械」

*1:ディックのサラリーマン小説的な側面というか。たしか『死の迷路』のあとがきでそんなことが指摘されていたような気がする。