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陳舜臣『中国傑物伝』〔文明の擁護者、過小評価された男、バランサー、晩節を全うした者たち〕

 純粋な短編小説というより評伝に近いスタイルで、春秋の范蠡から清末・民国初期の黄興までの傑物16人を採り上げている。内訳でいうと君主は四人(漢の宣帝、曹操、符堅、順治帝)だけで、あとは宰相や激動の人生を過ごした人物や在野の活動家などが多く、軍人は少なめ。各時代に一人ずつ*1を採り上げているから、時代を概観することもできる。このAmazonレビューにある通り、中国史の副読本に適した本だと思う。

 中国史三国時代までしかよく知らなかったんだけど、直近で魏晋南北朝 (講談社学術文庫)を読んでいたから苻堅まではかなりすんなり読めた。ただ、それ以降は業績をよく知らない人が大多数でちょっと苦戦した。もちろん、王安石鄭和順治帝は教科書に名前が出てくるくらいだからおおよそは知っていたけど、他の人は名前すら知らない人が多くて、そういう意味では興味深かったしそれなりに勉強にもなった。

 以下ごく簡単な感想。

 

一話 范蠡:上古代の人物特有の伝説性を「当時の人々の一種の理想像」と解釈しているところが好き。引退後のエピソードを読むとやっぱり統一帝国ができるまでは比較的移住が簡単だったのかなと思う。あと序盤に語られる西南地方の経済事情も興味深かった。

二話 子貢:中島敦「弟子」で頭でっかちみたいに評されていたのが印象的だったけど、実務面では必要不可欠な存在で、ある意味イエスキリストにとってユダが必要だったのと同じなのかもと思った。孔子集団の宰相的な役割を負っていた人。

三話 呂不韋:個人的にあまり良いイメージが無かったけど、たしかに先見性や妙な勝負強さは傑出していたのかもしれない。ラストで李斯との対比がでてくるけど、なんというか神輿として担がれるのにも才能が必要というのは本当かもなあ。

四話 張良:宰相の代名詞みたいな人で白面の貴公子的なイメージが強い*2けど、元をたどれば任侠の徒と交わっていた復讐者だった……そう考えると劉邦との相性は案外悪くなかったのかもしれない。復讐者から隠者になったという表現が好き。ただ、漢帝国成立以降(呂后期)の功績を含めて前漢初期の最高の傑物はやっぱり蕭何だと思う。

五話 漢の宣帝:すごい出自だよなあ。おとぎ話みたいだ。ちょっと前に秦漢帝国 (講談社学術文庫)を読んでいたから、かなり良いイメージを持っていた。やっぱりバランスですね。この人のおかげ(?)で「宣」という諡に好印象がある*3。こんなに分かりやすい中興の祖もいないんじゃないかな。まあ、結局長続きはしなかったけど。

六話 曹操三国時代の傑物といえばやっぱりこの人ですね。軍人君主というより合理主義者で文人という側面がやや強調されている。「漢は儒によって滅びた」とあって、たしかにそうかもしれないけど、とはいえ儒が力を失った東晋末期から五胡十六国南北朝のちょっとした地獄を見るとやっぱり儒学的な行動規範的なものって必要だったと思うなあ。

七話 符堅:いわゆる物語の三国志、『三国志演義』の劉備みたいな人で、現代人から見ても理想主義的すぎる(現代知識人がタイムスリップしたんじゃないかと疑うレベル)ところもあって、成し遂げた業績では間違いなく傑物なんだけど、ちょっと奇人よりの人でもある。淝水の戦いで勝利して彼が統一を果たしていたらどうなっていたんだろう、と思わずにはいられない。正直、性格的に長期政権は作れなかったと思うけど。

八話 張説:こういうタイプの宰相は好きだけど、後世の人からあまり高く評価されない傾向があるから、ここで採り上げられていてなんだか嬉しい。魏元忠への証言エピソード好きだなあ。田中芳樹銀河英雄伝説』の”弾劾者”ミュンツァーの元ネタの一人なんじゃないかなと思っている。

九話 馮道:すごい人生だなあ、いや本当に。春秋戦国時代の人物でもここまで渡り歩くなんてできないでしょ。この人の人生を追いかけるだけで五代十国という中国大陸に定期的に出現するそれなりの地獄をおおよそ理解できる。というかこの時代にこの経歴で天寿を全うできたのは掛け値なしにすごい。

十話 王安石:哀しい。理屈は正しいけど、それが実務として施行できるかは別の問題で、そしてただ愚直に正しかったはずの彼の製作すら政争の道具にされ……と頭一つ抜けて物悲しい。擁護者であったはずなのに、民衆からの人気も低かったのが本当に……報われないけど天寿を全うできたのは救いだよなあ。

十一話 耶律楚材:すごい。フィクションのキャラクターみたい。文明の擁護者として生涯を終えたわけだけど、元朝モンゴル帝国)自体が毀誉褒貶がそれなりに激しいらしいからその辺はちょっと考えたほうがいいのかもしれない。やっぱり太宗との飲酒エピソードはすごく好き。できすぎているくらいだけど。

十二話 劉基歴史シミュレーションゲームだったら知力100あるタイプ。助言が全部当たる系軍師。君主を含めて張良と共通点が多いけど、ギリギリまで引退できなかったのは劉基には理想があったからというのはかなりしっくりくる。洪武帝劉基には全幅の信頼を置いていたっぽいけど、引退せず生存していたとして粛清の魔の手から逃れられたかどうかはたしかに微妙かもなあ。

十三話 鄭和:生い立ち的にも業績的にもかなり変わり種の傑物。鄭和の宗教観はこうやって考えるとかなり興味深い。最後の一段の文章がとても好き。ただ、蔡倫については紙の発明者というより既存の紙の改良事業の責任者だったというほうが正確らしい。

十四話 順治帝:レビレート婚ってこの時代にもあったのか。順治帝はひどく嫌ったみだいだし儒教的には当然忌避されるわけだけど、あれって実際の結婚というより身分保障のための形式的なものと思ってたんだけど、どうなんだろう。諡は章帝*4だけど、文帝感がすごい。ラストの小説的描写を読むと生存説を信じたくなってしまう。

十五話 左宗棠:本書では珍しくかなり純粋な軍人。文句なく有能だけど決して近くにいてほしい人ではない。使う人も使われる人も大変だったんだろうなあ。曽国藩とは好対照の人物だったらしく、曽国藩の反省マニアエピソードと左宗棠の自画自賛唯我独尊エピソードは読み比べていると笑いがこみあげてくる。まあ、他人事だから笑えるのだけど。こんなのが上司や部下にいたら精神がもたないだろうなあ。

十六話 黄興:チェ・ゲバラを思い出した。良い意味でも悪い意味でも。無欲で偉丈夫で理想に燃える男、と近代の偉人の魅力が典型的に表れた男かもしれない。ちなみに孫文に統治能力があったかは疑問があるらしいけど、少なくとも神輿になる才能*5については当時右に出るものはいなかったのだと思う。

 

 作中(十四話 順治帝)ではけっこう否定的に評されていたけど、清朝の三皇帝(康熙帝雍正帝乾隆帝)は欠点を加味しても、やっぱり傑物と呼ぶにふさわしい人物だと思う。明清代はネットで聞きかじっているだけのニワカだけど、特に雍正帝は中国史上屈指の名君中の名君だと思う。割とマジで。

 選出された人々はどちらかというと単なる猛将や知恵者ではなく、文明の擁護者という側面がある人が多い。あと晩節を全うした人がほとんどなのも著者の人間観がでているようで興味深い。王安石や黄興は報われたとは言い難いけど誅殺されたわけでも憤死したわけでも賜死を受けたわけでもない。悲劇的な最期を迎えたのは呂不韋と符堅くらいだ。

 Amazonレビューでも言及されていたけど、あとがきの文章がとても良い。たしかに、英雄や偉大な思想家哲学者っていうのは失敗した時代にしか出現しないみたいなことも一理ある。特に王安石と耶律楚材が現在に生まれていたらどんな一生を送っていたのか、想像するとちょっと楽しい。

 陳舜臣*6は小学生のころ『秘本三国志』が大好きで「この事件の裏には実はこんな密約があって……」みたいな三国小説が書きたい! と燃えたなあ。結局(当然ながら)書けなかったけど。馬岱が好きだったから実は彼が実は五丈原の戦いの裏で暗躍して……みたいな作品にしようとしていたのは覚えている。懐かしいなあ。本書を読んでいたらあっちも読みたくなってきた。手元にないから図書館で借りるか買ってみるか、もしくは気になっていた『十八史略』に手を出してみるか。

*1:正確に言うと時代が重なっている人もいる。完全に同世代はいない、というくらいの意味でとらえてください。

*2:実際そういう外見だったらしい。

*3:逆に言うと前漢恵帝のせいで「恵」の印象が悪い。

*4:体天隆運定統建極英睿欽文顕武大徳弘功至仁純孝章皇帝。

*5:悪口じゃなくて誉め言葉として。

*6:亡くなられた方は敬意をこめて呼び捨てています。