電羊倉庫

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フィリップ・K・ディック『ヴァリス〔新訳版〕』〔理解できたし面白いけど……やっぱり残念〕

 思ったよりずっとわかる話だった。

 旧訳で読んだときより物語の筋をちゃんと理解できたのは翻訳のおかげなのか年月がそうさせてくれたのか。新訳のほうが俗語をちゃんと俗っぽく翻訳してくれているみたいで、少なくとも本書については新訳のほうが正しいような気がする。おれは英語がほとんど読めなくて原文にあたることもできないから、作品の状況や設定的に荒い言葉遣いのほうが正しいはず、という推論をしているに過ぎないけど。本当はやるべきなんだろうけど、旧訳で読んだときの印象がかなり悪いから旧訳を読み返して比較する気にはなれない。ちなみに神学の蘊蓄はほとんど無視した。たぶん読まなくても問題ないと思う。特に巻末に纏められているのも含めて「トラクタテ・クリプティカ・スクリプチュラ」は完全にスルーした。

 初読の時はマジで何を言っているかさっぱり理解できなくて物語の筋すらわからなくなり「ディックが完全にイカレてしまった」と思ったけど、そういうわけではないらしいことがわかった。少なくとも視点者フィルとしてはちゃんと客観性を保っている。そしてP139から始まるモーリスの説教は正しく、そしてこういう描写ができる程度にはディックも正気をだった。少なくとも七章くらいまではフィル≒ディックがかなりまともで、それ以降もちょっと入れ込んでいるっぽいところはあるけど、それなりには良識を保っている。

 ……ただ、解説でも指摘されていたようにそもそもフィル=ディック、ファット=第二の人格という解釈自体が間違いで主従は逆だったのかもしれない。こざこざと小煩い心の声はむしろフィルのほうで、作家生活すら本来の自分の「やるべきこと」ではなかった……というのが本書でのディックの認識だったのかもしれない。それが真実だとしたらとても哀しいけれど、続編二作のことを考えるとそのほうが正しいような気もしてくる。

 アイデンティティの分裂(喪失)、奇妙な理論、弱々しい上位存在、突破口かと思われた存在への手のひら返し等々を含めて冷静に読むと他のディック作品と連続しているというのは解説の通り。P198から語られる反復説っぽい理論や小説のタイトルが作中に登場することを含めて、どこか夢野『ドグラ・マグラ』を思い出す。

 ちょっとおかしい人が極めて真剣に作った作品。そういう意味でも『ドグラ・マグラ』と同列の作品で、そして極めて理知的な人が作ったおかしな作品という意味で『虚航船団』とは対照的だと思う。

 

 いくつかメモ。

 P210「オークランドの~」のテキスト好き。あまり意味は分からないけど、純粋に文章としては好き。P243に「Vast Active Living Inteligence System」の訳語「巨大活性諜報生命体システム」がある。全体的に新訳のほうが良かったと思っているけど、これだけは旧訳の「巨大にして能動的な生ける情報システム」のほうが好き。どちらが正しいかはともかく、旧訳のほうが陰謀論世界の用語っぽくて印象深い。『ヴァリス』が伏線と暗示の塊の映画というアイディアは面白い。もっと創作としての純度をあげて陰謀論的世界を描いていたらピンチョン『競売ナンバー49の叫び』になれたんじゃないかな……というのは贔屓の引き倒しか。

「忘れろ。お前、頭おかしいんだよ、ファット。エリックとリンダ・ランプトン並に狂ってる。ブレント・ミニと同じくらい狂ってる。 グロリアがシナノンビルから投身自殺して、自分を炒り卵サンドに変えた時以来、八年ずっと狂ってるんだ。あきらめて忘れろ。わかったか? お願いだから、たった一つそれだけ頼みを聞いてくれよ。ぼくたちみんなのために、たった一つその願いを聞き届けてくれって」(P378)

 ここのくだり、これが本当は決定的だったはず。なのに、もう一度ひっくりかえってしまった。

 まだ読んでいないけど『市に虎声あらん』の解説によればディックのこうした神学への傾倒は晩年に突然始まったわけではなく、処女作からしてそういうものだったらしい。そういう意味では晩年に毛色が変わったというわけではなくて、どちらかというと原点回帰に近い。旧訳ではマジでほとんど理解できずに嫌になって記憶があるけど、一応ちゃんと読めて理解もできて良かった。映画『ヴァリス』の設定はSFとしてもけっこう面白かったし。

 ここでも書いたけど、個人的にはそこじゃなくてもっとミクロな視点の救いというか、もっと地に足の着いた救いとか、もしくは現実に沿った倫理的なものを追究してほしかったというか……神様(上位存在?)とそれにともなう願望充足に向かわないでほしかったなあ。

 理解できたしそれなりに面白かったけど……やっぱり残念だ。