電羊倉庫

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フィリップ・K・ディック『去年を待ちながら〔新訳版〕』〔ディック詰め合わせの良作〕

 いいタイトル。ディック要素……懐古趣味(「パーキー・パットの日々」)、代替臓器で長生きする老人(『最後から二番目の真実』)、人造の疑似生物(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』)、特殊なドラッグ(『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』)、非ヒト型異星人(「おお! ブローベルとなりて」)、物を時間移動させる(「ペイチェック」)、星間戦争(『ザップ・ガン』)、予知能力(「マイノリティ・リポート」)……等々がてんこ盛りで、序盤の設定が投げだされて身近なところに収束するところもいかにもディックらしい、というのは解説の通り。視点はほとんどが主人公であるエリックでごく一部が妻のキャシーに移るだけ。ディック作品で女性が視点キャラになるのは割と珍しい気がする。しかも薬中が主人公じゃなくて妻の方っていうのもあまりみない。

 キャシーにはなんともいえない魅力がある。怒りっぽくてことあるごとに喚き散らすし夫が出世すると知った途端に態度を豹変させる俗物だけど、なんか好き。もちろん身近には絶対にいてほしくはないけど。というか適度に物語に絡んでこないから好きなのかもしれない。ずっといたら流石にキツイ。P325の「臆病者ではないから人生を取り戻すために頑張り続けるだろう」というキャシー評が印象に残る。バイタリティーはあるんだよなあ。

 好きなシーンもいくつか。P81くらいから突然始まるモリナーリのカウンセリングがなんかいい。妙に生々しくてディックの実体験なんじゃないかな、と邪推してしまう。痴呆的な描写から一転して急激に理知的になる揺さぶられ方がたまらない。124-126のドラッグ描写、P293-294のドラッグが切れる描写もいい。日常では絶対に体験できない描写はそれだけで嬉しくなる。P349でタイトルコール。眼を惹くタイトルに一応の意味付けがなされている。

 主人公は割と前向きというか、軽い自殺願望があることを除けば精神はそれなりに安定している。トラブルを解決できずにうだうだやっていた序盤のほうが口調も行動も明るかったけれど、終盤に「なんで前線に行かなかったの?」と問われてから妙に抑鬱的(いつものディック的主人公)になる。しかし、そこから復活するのが他のディック作品と一味違うところだ。もちろん、この世界での時間移動(というか時間覗見?)は厳密には未来でも過去でもなくて可能性世界みたいなものだから、これからどうなるかは彼らの行動次第なわけだけど、それでもあの状況で前を向けたことにはグッとくる。そしてラストのタクシーのセリフがめっちゃいい。もちろん解説にあるように正しいとは思わないけど、こんなセリフを終着点にできること自体が感動的だ。とても良い意味でディックらしくない。

 これは完全に余談だけどヴァレンタイン大統領のスタンドっぽいよなあ。ウェブで同じこと言っている人がいくらかいたけど、たぶん元ネタってわけでもなくて、単なる偶然だろうなあ。