電羊倉庫

嘘をつく練習と雑文・感想など。ウェブサイト(https://electricsheepsf.web.fc2.com/index.htm)※「創作」タグの記事は全てフィクションです。

どうでもいいから読書が好き、だけど学ぶこともあるよね

 タイトル、内容、著者、表紙デザイン、ジャンル、書き出し数ページ、ペラペラ捲った文字の並び、あとがき解説の文章、書評、知人の紹介等々、本を手に取る要因は人によってさまざまだ。おれは「財布が許してくれる範囲では」という但し書きがつくけど興味がわいた本は新刊古本を問わず可能な限り買うようにしていた。だって本は腐らないから。とりあえず手元に置いておけば、この世知辛い世の中で頻発する「いつか買おうと思っているうちに入手困難になる」という悲劇を回避することができる。そういうわけで積読本は増え続けていた。

 お察しの通り、過去形です。

 おれは読書が好きだけど語頭や語尾に狂の字がつくレベルではないから「積読本が増えた」といっても、本棚からあふれ出した積読本で居室が大変なことになっている人とか電子書籍を買いすぎて容量が大変なことになっている人とか、そういう段階には達していない。積んでいる冊数も一応は把握できる程度だしそのほとんどが文庫本だからキッチリ棚に収まりきっている。ひよっこもいいところだ。ぜんぜんたいしたことない。じゃあ、なんで片っ端から買うのをやめたのかというと、答えは簡単。たしかに本は腐らないけど、経年劣化によっておれの脳が先に腐る可能性がでてきたからだ。というのも読書は好きだけど読むのはかなり遅くて本棚の肥やしが増える速度に読破ペースがついていけていない。しかも、ただでさえ遅い言語処理能力が加齢とともにさらに衰えてきている。このままいったら冗談とかなしに死ぬまでに読み終わらないかもしれない。いや、マジで。さすがにゾッとしたから購入する本をある程度絞ることにして、時間をやりくりしコンディションを調整して毎日少しずつ読み進めて積読本をどうにか崩しつつある。ひとまずはいま持っている本を消化することに専念しよう!

 ……なんてことを内心宣言して、その心の舌の根も乾かぬうちに購入したのが講談社学術文庫《中国の歴史》シリーズ全12巻。文庫本とはいえそこそこ厚めの本を十二冊? ……いや、だって、Amazonでまとめ買いポイントバックのキャンペーンやってたから……それに中国史をある程度通して勉強しなおしたいと思ってたから……どちらにしろいつかは買う予定だったから……。

 とりあえず三巻目までは読み終わった。第一巻『中国の歴史1 神話から歴史へ 神話時代 夏王朝 』は殷王朝以前が対象で主に出土史料から中国各地の文明について概説している。馴染みのない年代で、しかも記述がかなり教科書的だから読み進めるのがかなりつらかったけど、おおよその文明の程度や神話のことを知れて良かった。第二巻『中国の歴史2 都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国 』は著者の学説がふんだんに盛り込まれているらしくて、通説とは違うところもあるらしい。だから手放しに絶賛はできない(おれには学説の是非を検討できるほどの学識はない。史料もあんまり読めないし)けど、史料を参照しつつ矛盾点をあぶりだして整理し、そこに合理的な説明を加えようとしているのはとても刺激的だった。まあ、学説はいろいろな人が検証して批判を加えて修正していくことで出来上がるわけだから今後に期待という感じなのかな。第三巻『中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国 』は、ようやく馴染みのある時代で、前二冊とは違ってかなりすんなり読めた。基本的には通説の通りの記述で、おおまかに時代の流れを学べるという意味でも入門書として良い本。個人的には廷尉であった李斯のもとには各地の裁判状況が届いていたはずで、それを介して地方の状況を把握していたという指摘が面白かった。あとはP212の肉料理の話とか、P334の漢代女性の化粧の話とかトリビア的なものも楽しい。

中国の歴史1 神話から歴史へ 神話時代 夏王朝 (講談社学術文庫)中国の歴史2 都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国 (講談社学術文庫)中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国 (講談社学術文庫)

 

 ほかにもいろいろ中国史の本を、主に漢代についての本を読み進めた。『中国刑法史研究 』は大学の時に読まされたような挫折してスルーしたようなと記憶があいまいだけど、興味がある分野だったので古本屋で購入。対象は古代史でだいたい春秋戦国から唐律までを扱っている。個人的には子供がいない死刑囚に子孫が断絶することを憐れんで妻を獄中に同宿させて妊娠してから死刑囚を処刑したエピソードが複数ある(もちろん例外的処理だけど)のが興味深く、なんともいえない哀しい気持ちになる。『漢帝国成立前史』は統一秦から前漢の成立まで順を追って解説していて、地理的な要素や統治能力の限界、それに史書の記述の方法から劉邦集団がいかに漢帝国を成立させたかを描いている。項羽と劉邦の争いで劉邦が勝利したのは当然の帰結……というわけではなく偶然が味方してくれた要素も大きいという指摘はなるほど。沢という非日常空間を知ったことでこの時代が立体的に理解できそうな気がする。あと漫画等の創作ではイマイチわからなかった章邯の名将っぷりが理解できたのも嬉しい。楚漢戦争を題材にした創作物の副読本に適した一冊。『呂太后期の権力構造 ―前漢初期「諸呂の乱」を手がかりに』前漢成立後高祖と恵帝から少帝二人まで内政に辣腕を振るった呂后の行動やバックボーンを分析し、前漢初期の政治構造と呂后の人物像に迫っている。呂后の行動をやや好意的に解釈するきらいはあるけど史料を基に功臣による「軍功受益」や呂氏の簒奪の意思などを批判的に検討している。「諸呂の乱」は呂氏による漢帝国への反乱というより宮廷クーデターで「誅呂の乱」というほうが正しいという指摘は納得できるけど、呂禄と呂産の野心については過小評価な気はする。呂后の兄の果たした役割や彼の死後に劉邦が皇太子交替を検討したことから呂后の権力の源の変化を論じていて非常に面白い。そういう視点で光武帝の皇后および皇太子交代劇を考察しても面白そう。皇統が恵帝と文帝で分かれていて、それゆえに正統性の問題から恵帝系が否定的に描かれるようになったというのが個人的には新鮮な視点だった。

中国刑法史研究 (1974年)漢帝国成立前史呂太后期の権力構造 ―前漢初期「諸呂の乱」を手がかりに

 いろいろ読んできたけど、ある瞬間にふと「どうして中国史が好きなんだろう」みたいなことを考え始めた。もちろん幼少期に生越嘉治 / 西村達馬『子ども版・三国志』とゲームの『三国無双』から横山光輝三国志』という黄金コースをたどって三国志が大好きになったから、昔取った杵柄というか三つ子の魂百までというか、そういう面があるのは間違いけどそれだけじゃ説明がつかない。なぜかというと中学生くらいまでは同じくらいの熱量を日本近現代史にむけていたからだ。それがある時期からパタリと興味をなくしていた。

 日本近現代史に限らず日本史自体にあまり触れなくなったのはどうしてだったかな、と記憶の糸をだどっていくと理由に思い当たるものがあった。といっても特別なイベントがあったわけじゃなくて、いろいろ史実を調べたりとかネットでの論争を眺めているうちに、それが現代問題と地続きなことをまざまざと見せつけられて嫌気がさしてきた。近現代史はどうしても現在とのつながりを無視することはできず現代まで続く根深く辛くやるせない問題の数々を直視せざるを得ない。それがなんだか嫌になって日本近現代史を、ひいては日本史自体から離れてしまった。

 翻って、どうして中国史(正確には古代中国史)を好きでいつづけられたかというと、どうでもいいからだ。いや、だって、みんな夏王朝の実在性とか『史記』と『漢書』の違いから見る当時の正統観の違いとか昆陽の戦いにおける新軍の実数とか曹操は漢の忠臣だったか否かなんて別にどうでもいいでしょ?

 もしかしたら本国の人にとってはどうでもよくないかもしれないけれど少なくとも異国に住むおれにとってはどうでもいいことだ。だからこそ純粋に研究成果であったり理論的な検討を楽しむことができる。知らないことに出会えると一点の曇りなく本当に嬉しい。日本史や、もしかしたら他の学問領域でもそうはいかない。そういう意味で近現代の中国史も関心はあるけど踏み込むのがちょっと怖い。

 こざこざと書いてきたけど、一言でいうと現実逃避だ。だからいい歳して(繊細なティーンじゃあるまいし)現実に向き合わずに逃げ続けている劣悪な人間、と非難されたらぐうの音もでない。けれど、逃避もそれなりに大切だ……と思いたい。読書好きの人から見れば不誠実極まりない態度かもしれないけど、おれにとっての読書はやっぱりそういうものだ。

 これはフィクションでも同じで、だからおれはSF/ファンタジー歴史小説が好きなんだと気づいた。もちろん、SFやファンタジーでも社会問題への意識を持った作品はいくらでもある。というより、名作と謳われている作品のほとんどが社会問題を意識しているような気がしなくもない。けれど、おれが好きな作品はどちらかというとアイディア重視でいうなれば「変な話」なことが多い。そしてそういう作品は往々にして社会問題とは一定の距離を置いていることが多い……と思う。だからおれはSF/ファンタジーの先見性とか啓蒙性、批評性についての議論は読んでいてもあまりピンとこない。そういう視点でSFを読んでいないことの方が多いからだ。

 ……けど、まったく教訓を得ないわけではない。ちゃんとした読書好きの方への言い訳みたいになるけど、おれは映像作品から書籍類全般のすべての娯楽から、それなりのことを学び取って自分自身の礎にしている。

 中国史なら前掲の『中国の歴史2』は上に書いた通り内容には賛否があるみたいだけど、史書の読み解く姿勢は称賛してもいいものがある。古代中国の春秋時代については戦国時代に成立した史書によって知ることができる。そして戦国時代の史書は戦国時代の人々の価値観やその時期の権力者の都合に制約を受ける。これらの史書春秋時代の偉人である孔子をどう評価しているか、理想化された王朝である周をどう認識しているかは、その書物が成立した国の権力者が何を肯定し何を否定したいかによって変化する。言い換えると「当時の都合によって記述がゆがめられている」のだ。だから、書いてある記述をそのまま受け入れることはできず、まずはその史書が成立した背景を探っていく必要がある。公平と名高い司馬遷陳寿*1ですら史書には書けないことがあったり諸々の事情を婉曲に表現せざるを得なかったわけだし、そうでなくても史家もその時代の倫理観等に縛られざるを得ないのだから、その辺をある程度差っ引いて史書を読むことが不可欠だ。こういう史書へのアプローチは現代の歴史学では必須らしくて前掲の『漢帝国成立前史』『呂太后期の権力構造』にもそういう意識が存在する。

 長々と書いて結局何が言いたいのかというと証言や記録には限界があるということだ。どのような媒体であれ取捨選択が発生た時点で選者の主観が入らざるを得ず、その人の都合が反映されてしまう。そして悪口は言う側の都合も大きいということ。火のない所に煙は立たぬはたしかに正しいけど、悪口を言う側に相応の理由がありそうならその辺を差っ引いて考えなくてはいけない。これはけっこう普遍性があることで政治家/政党の○○とか文筆家業の◇◇とか△△人とか会社の上司/部下とか老人若者とかそういう特定の属性に向けた法則(?)じゃない。権力を持つ人/組織に限らず、ヒトには大なり小なりそういうところがあるし、なんならおれはそんなことをできることこそが知性だとすら思う。

 漫画でいけば士郎正宗攻殻機動隊』のおかげでおれは多様性の信奉者になれた。おれは割と本気で「いろんなやつがいっぱいいるのが一番良い」と思っている。現代社会における「多様性」の重要性はある程度の年齢の人には等しく理解してもらえると思うけど、どうしてなのか説明できる人は少ないと思う。もしくは倫理的な面から回答する人が多いんじゃないかな。けど、倫理は信用できない。だいぶ上の方に書いたけど「子供がいなくて家を絶やすのが可哀そうだから妻を同衾させて妊娠したら後顧の憂いなしということで処刑します。死刑囚も涙流して喜んでいます」とか現代人からすると美談とは言い難いけど、家を存続させることが極めて重要だったから成立した。ちなみに古代中国では親を殴ったり罵ったりしただけで死刑になったりもする。文化が違う。

 倫理は時代によって様変わりするから信頼できない。おれは違う回答を知っている。『攻殻機動隊』P334-342の人形使いと少佐の問答だ。破局に強くなるには「多様に変化するゆらぎをもった存在」になるほかなく、電子生命体である人形使いはその「ゆらぎ」を獲得するため少佐と融合しネットの海に変種グライダーを流し続けるになる。

なぜなら私のシステムには廊下や進化の為のゆらぎや自由度(あそび)が無く破局に対して抵抗力を持たないからだ・・・・

コピーをとって増えた所で「1種のウイルスで例外なく全滅する」可能性を持つ・・・・コピーでは個性や多様性が生じないのだ…

士郎正宗攻殻機動隊』(講談社、1991年、P339)

 多様性を尊重しなければならないのは、それによって破局に強くなれるからだ。だからおれはアーサー・C・クラーク幼年期の終わり』の「人類の進化」は好きではない。というか間違っているとすら思う。いくら強大で素晴らしい存在であっても単一の存在である限り、どうあっても破局に弱くなるはずだからだ。

 小説ではやっぱり星新一白い服の男」だ。ここでも書いたけど正義も煎じ詰めていくと別の正義と衝突してしまうことを(おそらく著者自身の意図とは離れて)的確に表現している。これもやっぱり普遍性のある原理だ。

 どうでもいいこと、どうでもいい話、どうでもいい筋書き。そんな娯楽を純粋に味わいながらもそこから普遍性のある何かを引き出せる。それが読書の醍醐味の一つだと思う。

 だから社会問題を扱った作品から逃げても許してください……そんなに怒らないで……学んだりすることもあるから……。

*1:ちなみに陳寿については田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」がCiNiiで読める。面白いからぜひ一読を。